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私が工芸に入学したのが、昭和50年(1975年)でした。私の住む近所の人なら西野田か都島に行くだけど、工芸にしたのはなんでだろうか、やっぱ私服やったからかな、今は制服になりましたし、私よりも古い時代はもちろん制服ですが、あれは学生運動華やかしき時代の流れですね。60年安保、70年安保と来て浅間山荘事件の後、そのエネルギーは下火になったと言うか、世間の関心が無くなっていった時代です。
80年安保以後たいしたニュースにもならなかった気がする。赤軍派も海外に拠点を移したことにより、国内は無関心になったのでしょうか、それ以前は学校のサークルにも社会研究みたいな左よりの研究会なんかもあつたようですが、わたしの頃は無くなっていました。青春を謳歌してたのか、し過ぎたのか私の2年後輩から制服に変わりましたし、学校の出入りが自由に出来なくなつてしまつた。それ以前は昼食にも学校外に行って食べてた人も結構多い。それでか、学食の記憶が薄いのは。
後、授業を抜け出してパチンコに行ってた奴や、部室で麻雀やってた奴もいましたが、担任が後に工芸の校長になった秋山(形山)謹三先生でしたが、我々が初めての担任だったらしく熱心な先生で、自分の授業が無いときには、教室に来て出席簿をチェック。抜け出した奴がいたら自転車に乗って探しに行ってました。最初に探しに行くのは、昭和町のアタリヤで、ここで見つかった奴は結構いました。
工芸出身で活躍されている人は多くおられますが、私の頃は2年先輩には、歌手の麻倉未稀(本名:村上 徳子)さんのおねいさんで、ミス・ユニバース 近畿地区代表の村上美和子(高橋美和子)さんがおられました。図案科で現在もモデルとしてご活躍しておられます。
1年先輩には木材工芸科に俳優の時任 三郎(ときとう さぶろう)さんがおられました。
私服だから普段からおしゃれな人はいましたが、初めて参加した卒業式の華やかさには驚きましたよ。これは高校の卒業式かと、こんな装いで行われる卒業式は、あのころの工芸でしか今も見られないと思ってます。
1年後輩には、漫画家の多田 かおる(図案科)さんがおられましたが、1999年に若くしてお亡くなりになりました。
いつも比較されるのは同じ市立の都工ですが、都工とは対照的に工芸は個性的で、まとまりに欠ける所がありますが、それが最大の取り柄なのだと。
記者 濱田 義之(昭和53年卒)
出席者:OB6名、教職員7名参加
新たに90周年に向けた体制作りを行うため
組織として、今まで会長のみ決まっていたが、あたらめて役員を決定する。
名誉会長として、建築デザイン科 出雄 隆先生
会長 東野 忠雄 昭和37年卒
副会長 糟谷 修 昭和40年卒
会計 稲本 正吾先生 昭和47年卒
会計 濱田 義之 昭和53年卒
理事として
建築デザイン科教職員全員を理事とする。
OB理事として出席者を改めて理事に任命する。
理事 塩路 祐一 昭和40年卒
理事 上杉 正人 昭和42年卒
理事 中田 雄介 平成18年卒
その他理事については、今回出席できなかった方が多いので後日確認の上
尚、次回理事会は5月30日 18:30~19:30大阪工芸会室にて行います。
ご案内については、後日郵送いたしますのでご確認下さい。
本日ご参加出来なかった理事の皆様は、出来る限り次回はご参加下
追記
建築デザイン科 門脇 裕之先生 (平成9年卒)が、都島工業に
記者 濱田 義之
今、大阪府庁本館の5階にある正庁の間が、毎週水曜と金曜に一般公開されています。
事務所が近いので覗いてきました。
http://www.pref.osaka.jp/otemaemachi/seicyou-koukai/index.html
大阪府庁本館は、大正15年竣工で、工芸の本館が大正13年なので少し新しいです。
いわゆるモダニズム建築ですね。ステンドグラスは希少なもののようです。
一度御覧下さいませ。
記者 濱田 義之