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シグマ会大同窓会情報-3
平成26年10月19日に行われるシグマ会65周年記念大同窓会に
参加される先生方です。(まだ出欠の連絡を頂いてない方もおられます。)
 1 崎山 宗威 先生
 2 山田 修 先生
 3 国末 武博 先生
 4 松井 穆 先生
 5 留目 正文 先生
 6 山本(山村)多真樹 先生
 7 和田 康由 先生
 8 秋山(形山)謹三 先生
 9 西岡 清 先生
10 桜井 良明 先生
11 山口 繁雄 先生
12 岡田 依子 先生(現 工芸ID)
13 柴 勝利 先生(現 工芸V)
14 宮本 昌彦 先生(現 D研)
15 門脇 裕之 先生(現 都島工業)
16 宇都 直人 先生(現 都島工業)
17 野田 千賀子 先生(現 汎愛)
18 六村 浩士 先生(現 工芸ID)
19 矢倉 鉄也 先生(現 都島工業)
20 出雄 隆 先生
21 前川 敏 先生
22 西村 博之 先生 以下現職
23 稲本 正吾 先生
24 小原 博 先生
25 関澤 博之 先生
26 辻 賢太郎 先生
27 松井 文音 先生
28 泉 くるみ 先生
以上 建築科/建築デザイン科の先生
普通科で担任をされた先生方の参加メンバー
29 天野 輝夫 先生(英語)
30 高橋 寛明 先生(体育 現 市立)
31 長谷部 哲也 先生(社会 現 東)
32 羽島 康夫 先生(数学)
33 高橋 剛 先生(体育 現 淀商)
34 北端 隆 先生(英語 現 工芸)
35 反保 正 先生(体育 現 工芸)
36 津村 貴昭 先生(英語 現 南)
大同窓会の日程は
日 時:平成26年10月19日(日)13:00~16:00
場 所:新大阪ワシントンホテルプラザ ダイヤモンドホール
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                平成25年7月吉日
シグマ会役員各位 様
                シグマ会会長 東野 忠雄
     シグマ会役員会のお知らせ
前略
 平素は、シグマ会の運営にご協力たわまり、ありがとうございます。
先日、総会を行いました際には、ご協力ありがとうございました。
つきましては、定例役員会を下記日時で開催しますので、
皆様のご出席をお願いします。
 尚、出欠のご返事はTELまたはFAXにて稲本までご連絡ください。
 もちろんメールにての出欠の返事でも結構です。
                                              草々
                                                    
        記
日  時 平成25年 7月24日(水)18時30分
場  所 大阪市立工芸高等学校 2号館1階 工芸会室
案  件 1 今後の運営(交流会等)について
          2 その他
      
          出欠連絡 平成25年 7月22日(月)までにTEL
          またはFAXにてお願いします。
          大阪市立工芸高等学校 建築デザイン科 稲本まで
          建築デザイン科職員室 直通
          TEL・FAX共  06-6623-0469
          
                以上よろしくお願い致します。
また、役員以外の方でも、ご協力頂ける方や、今後の運営方針に
ご意見があればご参加下さい。
または、メールでも結構です。
シグマ会メールアドレス sigma@home.nifty.jp
シグマ会 会誌第10号 6頁
裏切者  笹川 博敏 (3期生)
 近頃になって、ボクは罪深い夢をよく見えるようになった。

 黒ずんだ製図板の上にのったT定規とカラス口の幻影である。

 こんな悪夢に悩まされるからといって、別に贖罪しようなどという気は毛頭ないけれども、

寝覚めのいいものではない。

 ボクがT定規を捨ててから六年余りになるが、今までこんな嫌な夢を見た覚えがないだけに、

何かうしろめたい思いだ。こんな事を書くと母校に悪いけれど、もはや忘れ去ってしまった筈の

思い出が記憶力の良くないボクの脳裏に刻みこまれているとすれば、

母校を裏切った因業応報というやつかも知れない。

 ボクが工芸学校へ入学したのは、ボクの意志ではなかった。

オヤジが図案科卒業の大先輩だというまったく無意味な親馬鹿チャンリンで

入学させられてしまつたのが真相である。

 もっとも、ボクだってオヤジの正当な血を引いているのだから、

薄い毛髪を掻きむしりながら製図板に向かっていたオヤジの哀れとも悲壮ともつかぬ姿に

ある種の畏敬の念を抱いていたことは否定出来ないけれども、

叔父も同じ工芸の図案科卒業生だったという悪条件と、それに、

当時は普通の中学校へ入ると予科練などに行かなければ家門の恥辱などという 

おせっかいな社会状勢だったし、戦争も怖いし、オヤジが絵筆を握って兵役を

まぬがれていたから、ノコノコと奈良の山猿が、

まるで牢獄のような赤レンガの校門を潜ったわけである。

・・・・中略・・・・

 大学の文科へ入った少年は、今東光という心の支柱を得て、

脱兎のごとく破滅への道を駆け出した。

少年が立ち寄るところには必ず事件が起こった。

 ここでボクは愚かな少年のために、母校の恩師、先輩、それに同級生の諸氏に

謝罪しなければならない、少年が惹き起こした不祥事は、

すべてボクに免じて赦してやつていただきたい。

 悪気のある奴ではないのである、就職運動もせずに、

己の夢に酔いつつ少年が紅燈の港を彷徨し、焼酎臭い息を吐きながら文学論を

喋り散らしている時でも腐敗した脳の片隅では諸兄にわびていたのだから・・・・・

 文学という麻薬のために就職口を棒に振ったこの少年は、

一段と青白き文学青年に成長し、大学院に進んだが、

彼が文学という無形の世界に沈溺することの楽しさ、それへの生き甲斐とは別に、

やはり男にはビジネスのあることをようやく悟り、またまた、

文学という最愛の人を裏切ってしまった。

工芸学校という良き母校を裏切ったと同じように・・・

 テレビ放送界へ迷い込んだボクは、やっと魂の遍歴に小康を得たように思う、

良きにつけ悪しきにつけて人生の出発点であった母校を裏切り、

今また自分の宿り木から出奔したボクだけれど、まだまだ裏切り足りないと思っている。

 近い将来に第三の明智光秀にならないとも限らないが、あれもこれも、

自分自身を裏切りたくないからだ。

 そして、この裏切り者の土性骨を養うことが出来たのは他なら無い

母校工芸学校時代だったことを肝に銘じて忘れない。

 ボクは母校を裏切ったけれども、母校がボクに教えてくれた人生への道標だけは、

これからも鼻先に、この裏切り者が、”俺はこれでも母校に貢献するために、

この悪文を書いたのだ”呟いたことを補記しておかなければなるまい。
シグマ会 会誌第10号 5頁
シグマ交友10年 蔵田 周忠(武蔵工業大学教授)

 書棚の隅に茶色の袋に入れて、上には「大阪工芸」と私が毛筆で大きく書いた包みが、

今では三袋ある。-隅にと書いたけど、私としては大切に保存してある、何かの資料の一つである。

 これが言うまでもなく大阪市立工芸高等学校建築科の諸君が出された”Σ”と「古塔」なのである。

なつかしくいろいろの思い出につながる資料なのである。

 Σが発行10周年の記念号を出されるというので、しぐま・Σ・紫隅の第1号から取り出して

ながめている。

-昔から十年一と昔という。思えばΣだけでも一と昔のむかしからの交友なのである。

これを出した諸君を育ててこられた篠原前校長をはじめ、直接には山本科長、渡辺現校長、

それから多くの先生がたと、長い間のおつきあいである。よくもつづけて送って下さつたものと思う。

これにはもちろん諸君の山本利雄先生の並々ならぬ、友情がこめられていることを感じている。

 Σの第1号の出たのが奥付を見ると、昭和24年とある。丁度偶然なことには、

私達の武蔵工大が、新制大学として立ちなおつた年でもある。もとの高等工業専門学校から

新しいシステムに切りかえて発足した大学でもいろいろの苦労があったが、

それに比べてΣを発行してきた諸君の工芸高等学校の成り立ちと経営とが、

どんなに困難な仕事であつたかは想像もできないほどだと思う。

 お互いに発足した頃は、技術を身につけようとする若人が第一少なかった。

その道に入つてけわしい坂を登ろうと決心されたΣの先輩のような若者は、

たしかに勇気のある青年であったと、今から讃えられてよい人達だと思う。

 当時混沌とした社会の中でそれらの若人をうけ入れて、守り育てて、

今や立派な技術者として働く諸君を作り上げられた校長と先生達は、

云うに云われぬ苦労をされたにちがいない。

 けれども今や10年というエポックを画して、輝かしい前途を望みながら、

立派に築かれた現在の地盤の上に、堂々と足を踏ん張って立ちながら過去を振り返ることは、

過ぎ去った苦労を忘れてうれしいことである。

 その共感の故に、直接間接に仲間である”Σ”と「古塔」の発展をいつも遠くから

見守ってきた一人として、10周年を迎えられたお祝いを申し上げ、

一層の御精励と御発展を祈りたい。(1958.10.31)

シグマ会を創設され、創設期から建築教育やシグマ会の運営に情熱を傾けられた、山本利雄先生(東京高等工芸専門学校卒:現千葉大工学部)、斉藤暢先 生(名古屋高等工業専門学校卒:現名古屋工業大学)、藪中幸彦先生(福井高等工業専門学校卒:現福井大学)、当時校長であられた篠原太郎先生(蔵前高等工 業専門学校卒:現東京工業大学)が鬼畜に入られて久しい。
在籍して間もない頃、山本先生(科長)からお聞きしたシグマ会の由来について、以下に簡略に記し ます。

言うまでもありませんが、『シグマ』はギリシャ文字の『Σ』であります。
山本先生が都島工業学校に在学中、都島工業の建築科で力学を教えておられ たのが篠原先生で、力学の授業には盛んに『Σ』が出てきます。

一方篠原先生のニックネームが北海道に生息する大型の熊『ひぐま』であったそうです。
『ひぐ ま』をもじって『シグマ会』にしたと、話されました。

また大阪市立工芸学校建築科は、昭和19年(戦争中)に戦争遂行のため図案科が廃止となり、図案科の代わりに創設されました。

工芸学校の『工芸』 も改称をせまられた時代です。
敗戦後、間もない頃、学校の制度も旧制度から新制度に変わったが、学校に行っても教室も十分に無い、教科書も無い、食べ物も 無い、着る物も無い、就職先も無い、大変な時代でした。
この混乱期に赴任され、先生方が非常に困られたのは、卒業して行く生徒の就職でした。
当時は、都 島、西野田、今宮、伏見、吉野、兵庫の県立工業等に建築科があり、いずれの学校も、明治40年頃に設立されており、古い歴史と伝統をもった学校と新設の学 校の就職は大きなハンディがありました。
会社に入ってからも、引き立て、指導してくれる先輩の卒業生はおらず、孤立無援という状態です。
卒業生が自信を もって活躍する為にも、また在校生に希望を持たす為に、在校生・卒業生・学校が連帯感を持つ必要を痛切に感じられたそうです。

以上、山本先生からお話をお聞きして半世紀近くが過ぎました。
物故されました山本先生、斉藤先生、藪中先生、篠原先生、最近亡くなられた波多野泰之祐先生のご冥福をお祈り致します。
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