忍者ブログ
  



[ 1 ]  [ 2
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

記念講演会の講師を務められた先輩方々おっしゃった事に
工芸は自由だった まさに学園であったと。
思い出せば私が入学した昭和50年は所謂私服組であった。
昭和47年から服装が自由になったのである。
昭和52年の新入生から現在の制服となる。
だから私が3年生の時は、2,3年生は私服で
1年生のみ制服という状態でありました。
講師の先輩達の時分はもちろん制服であるが、
秩序ある自由だったのであろう。
私服となりその秩序ある自由が、秩序なき自由に変化して行くのが早すぎたのだろう。
たった5年程しか私服が続かなかったのだから、
しかもその変化の中に自分たちがいたのである。
仁野先輩が語っていたパチンコ屋やたばこの話しは
我々の時にもあったの思い出す。
この前に投稿した写真に写っている秋山先生が
自転車に乗って昭和町のあたりや(パチンコ屋)まで生徒を捜しに来ていた事を思い出す。
その当時は出入り自由だったからね。
朝は高校生でも喫茶店によってから登校するし、
だいたいグループ毎に行き付けの喫茶店が決まっていた。
昼ご飯も外に食べにいてた時代だった。
たばこも先生がいきなりポケットに手をつ込んできて
たばこを取っていったものだった。
もちろおとがめはなかったが、それがやがて
停学に外出禁止となる。
今はないけど校門の中に小屋があって
先生2人が生徒の出入りをチェックする。
自由が無くなってきた
いや、自分たちで自由を失う行為を行ってきたのである。
しかし、ほんとうの自由は失っていない
少なくともわたしは思う
見た目の制御はあるが、心まで制御されたわけじゃない。
学校の外には出られなくなったが、中では結構自由にやらして頂いた。
そんな中で一度、集団で遅刻したことがあり
間の悪い事に、一時間目体育の時間をさぼったのですが、
担当は森川先生そして遅刻した時に門番をしていたのが森川先生
メチャクチャ怒られ、担任を呼べと言われ
秋山先生が来て森川先生以上にメチャクチャ怒り出す。
でもこの時、秋山先生はなぜ私達が遅刻したか理由は知っておられたのですが、
知らないふりして怒ってました。
秋山先生には卒業式にも迷惑をおかけしました。
卒業式の時に行う答辞の原稿です。
事前にチェックされるのですが、
わたくしは書いて有ることと違うことをしゃべってしまい
最後に原稿を校長先生に渡すときに
校長と握手したのですが、なかなか手を離してくれなかった
案の定、秋山先生が批判されたようで、
今でも正月には秋山先生宅へお酒持って行ってます。
が、毎回夜遅くまで、時には朝までおじゃまして
いまだに迷惑かけてますね<(_ _)>
S53卒.濱田
PR
9月20日書き込みましたが、「ど根性」がいつから始めたのか
そんなことを気にしながら、この間
工芸レイディオの収録に参加
そこで出たのが、いまじゃ工芸で、
「ど根性」と叫んでいるのは、インテリア・デザイン科
かつての木材工芸科だけだと(?_?)

その後学校に行く事があり、
稲本先生と小一時間雑談すると、
なんと応援歌もとっくに歌わなくなったとか(>_<)
学生の時は覚えるまで帰らしてもらえなかったもんだけどね。
もともと応援団は近大の流れだった為に、
応援歌の一つに、近大節をアレンジした応援歌がありましたが、
ここ10年程前から、近大さんが著作権を言い始めた為に
歌えなくなったのが影響したのか?
「此処は・・・か  ・・・街か」てやっです。
著作権に接触するとまずいので・・・で
無くなったのがそんな理由とは思えません。
なんせ、今工芸では団体競技に必要な人数も足りない為、
ほとんどの運動部は消滅したようなものだそうです。
逆に文化部系が増えたとか、そう言われれば
なんとなく納得です。

今度応援歌でも歌おうかと思ったが
著作権を調べとかなあかんな
「一つとせ・・・・」から始まるやつと
「嗚呼工芸の殿堂に・・・・」で始まる
二曲ははたして歌えるのか・・・・


http://kougeiradio.blog.fc2.com/
工芸レイディオ〜母校を愛するあまり〜を聞いて
「ど根性」なるものがいつ頃から始まったのかちょっと調べてみたが定かでありません。
シグマ会の会誌を読んでいると、いくつかの記述があった。
1952年(昭和27年)発行の会誌の中に新入生歓迎会として、こんな記述がありました。
「新一年を交へ放課後Σの友達は『生命をかけて我らの歴史築き行かん』の建築の歌を練習する美しい集いが目にうつた。」
と記載されている。
わたくしも歓迎会で応援歌を3曲覚えさせられたが、こんな歌詞の歌はなかった。
第一に、美しい集いとはちゃうやろ!
また、シグマ会50周年の記念誌に、昭和29年(1954年)卒のOBがこんな文章を掲載している。
「当時 建築科は講堂で 2,3年合同教室で 先輩「3期生」に
建築科の「ど根性」と申し、こんこんと 説教され バケツを頭に
シグマ会の精神とやら入れ替わり立ち替わり 数時間に渡り 続いた様に思います。
恐ろしい学科に入学したものだと思いました。」
わたしの時代はバケツはないし、精神論は無かったと思う。
とにかく「ど根性」に始まり、応援歌を覚えることが優先されたように思います。
そのおかげで、卒業して35年経つけど、応援団でないのに応援歌が歌える。
もっとも最近はだいぶんと危うい記憶である。
結局の所いつからか解らないが、かなり昔からやっているのだろう。
補足:当時の講堂は、現在のデザイン教育研究所の位置ありました。
    また、建築科は設置されたばかりで、自前の教室が無く、学校内を彷徨ってた時代です。
    これらの話しは、シグマ会会誌に詳しく書かれています。
    工芸レイディオを始めたのは我らシグマの後輩達であります。
    
シグマ会の役員会は、いつも工芸高校の2号館1階にある工芸会室で行ってますが、
ここには色々と過去の資料等がおいてあります。

今回ご紹介するのは、シグマ会発足当時から発行されていた小雑誌「紫隅」(シグマ)
全ては残ってませんが、4号から20号ぐらいまで残っていました。
欠落した号もあります。

中を見ると、私ぐらいだと知った名前が出てくるし、
会計報告には、知った先生の結婚祝いなんてのもありました。
シグマ会会員の方で、過去に発行された「紫隅」をお持ちの方、
学校の方へ寄贈していただけませんでしょうか。
〒545-0004
大阪市阿倍野区文の里1-7-2
大阪市立工芸高等学校
建築デザイン科まで
ac8adf63.jpeg


 

水曜のシグマ会の幹事会終了後に、いつものごとくニュー丹波に飲みに行く。
この日は会長と副会長にわたくし(濱田)の三人であったが、
いつものごとく色々な話をするのだが、
やはりわたくしとしては、今まで知らなかった事や、そうだったのか等と納得する話を聞けるのも楽しい酒の肴です。
工芸会の理事会後も同じように各科の先輩達の話が聞かれて楽しいです。
この日初めて知ったのが、建築家の三けんぞうについてです。
一人目は、竹腰健造(1888~1981)現在の日建設計のもとになる。
長谷部・竹腰建築事務所を、古巣の住友本店の援助を得て、長谷部鋭吉と共に設立する。
二人目は、東畑兼三(1902~1998)東畑建築事務所の創設者です。
三人目は、丹下健三(1913~2005)この方はご存じの方も多いですよね。
この三人事をそのように称するようです。
忍者ブログ   [PR]