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9月7日にシグマ会交流会として三輪そうめん延ばし体験に行ってまいりました。

そうめん延ばしの第一工程
30cmほどのものを1m程延ばします。4回ぐらいにわけて延ばします。一回で延ばすと均等な太さにならない

第二工程は上から中間の位置まで延ばす。これも4回程度にわけて

第三工程は竹の箸を使った麺をわけます。
この開いた状態がベストショットになります。

第四工程は一番下まで延ばします。

最後に竹の箸でわけて出来上がり
このそうめんを持って帰ります。
生のそうめんは、このそうめん延ばし体験をしないと持ってかえられません。

延ばしたそうめんの前で記念写真

昼食はそうめんセット
こちらビールは置いてありませんが、
本日は三輪そうめん山本様のご厚意で持ち込みさせて頂きました。

本の麺ゆう館のすぐ前にあるのが、箸墓古墳で
その前にて、シグマ会東野会長から解説があり、
それとあらためて参加者の自己紹介を行いました。
参加者は、昭和から平成の卒業生に現役生と他科の方も参加頂きました。

最後に三輪神社前で東野会長の解説を聞いて解散となりましたが、皆さんこの後は、パワースポットである深井神社の神水を飲みにいきました。
次回は皆様のご参加をお待ち申しております。

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今日からシグマ会会誌第19号をシグマ会フェースブックにて掲載いたします。

下記をクリックして下さい。

シグマ会

フェースブックにてオロチヨン(山本利雄シグマ会会長のニックネーム)欧州旅日記の始まり
1962年まだ1ドルが360円の時代で、ヨーロッパ行くのにも予防接種が10日間かかるとか、
当時の経済状況もわかっておもしろかったです。
下記の画像をクリックして拡大して見て下さい。

本日からフェイスブックにてシグマ会誌15号を掲載致します。
画像はクリックして拡大して見て下さい。



その当時の写真、手前が地下鉄車庫だった新グランドで、
現在の2号館の増築前(2階建て)の姿が写ってます。
シグマ会 会誌第13号 昭和36年(1961)発行
はじめのことば 1~2ページ
シグマの秘密 会長 山本利雄
・・・・前略・・・
 初めの頃 わが建築科への志願者は少なく定員に充たない時もあった。正に悲壮であった。その時分、志願者の調整事務が行われ、私は今宮工高へ不足分をもらいに行ったことがある。先方で落ちたうち良いものを拾ってわが校へ入れる訳である。情けない思いであった。外「工芸高校てどこにあるんや」「建築科があるのか」と足を棒にして日夜 祭日も日曜も歩き疲れて市内の業界者へ飛び込んだ時の言葉がこれであった。そして内 製図板1枚、机1つもなかったのだ、いや、それどころではない、居る場所すらなかった。全部図案科の借り物で、教員も同科に食客になったり。講堂に間仕切りして過ごしたものであった。無名で伝統なく、質い於いて一歩を譲るといった当時のわが科の姿はこの様に貧弱なものであった。そのさなか、毎日毎日芋ばかり弁当にもってくる子、授業料不払い長期の子、身も心も愛情にえう、やせ細った貧弱な子等が私達にまっわりつくのだ。太陽を求め 温かいものを求めて・・・・・私達も同じくやせて貧弱さに変わりはなかった。むしろ原始的なオロチョン部落といえよう。そして「叱り」「反抗し」「論じ」・・・・・
やっと生徒も先生も一緒に建築を勉強したのだ。
 当時の焼き芋の味かなっかしい。冷たい空間に、貧しい親と子が1ヶのほのかに温かい芋を分け合った。うれしさは今日得られない「人の味」である。焼き芋が今川焼きになり、うどんになり、ラーメンをすすり合うまでに成長した。・・・・・優等生も末席の子等も同じシグマの子であった。「てんかんの子」も「ヒロポンを打った子」も「イレズミをした子」も「異父母の子」も「ガールフレンドを2人もつ子」もシグマの大切なわが子であった。他校に比べて底抜けの人の好い正直な子であることを私は捉へてしまった。すべてが彼等のせいではないのだ、貧しい私等によりそってくるのだった。・・・・
 新春61年は明けた。あれから10年たっている。正月早々の私の家に自家用車が1台止まった。初めてわが家に止まったシグマの子の車である。私をのせたその車は京都へ、私は伏見稲荷神前にシグマの開運を喜び、シグマの祝詞を祈祷した。焼き芋の代わりに豪華な鍋をつつき合うことになった。幕の25日から正月の8日迄に私は1日も休むことなくシグマの子等の招宴に列して、晴れ姿に幸福な目をうっとりさせた。シグマの子等のもてなしに喜ぶだけでなく。あの貧弱な子等の中に生きていた「尊い魂」が生命を吹き出したのが私の至幸に酔った訳だった。夫々の予紡=「飛行機による上京」、「車による九州1周」「上高地への連行」「北海道への旅」・・・・シグマのわが子からの申し入れなのだ。一々応じていたら私の身体がもたないし。あるものは子等の「夢」でもあろう。シグマの子等は自分だけでなく「私等と一緒に幸福」になりたいのだ。
 
 それだから、それでも他に比べて未だしのこの地方の一高校建築科の数質、社会的地位の低さ。一口に総じて未だ「若い」わがシグマの今日がうれしく、尊いのである。こうした「シグマの秘密」の一端を初めて私は諸君に紹介したのである。
 こうした基盤の上にたつのがわが建築科であり。シグマであることを知ってほしい。諸君は、この「名もなく 貧しく しかし不動のシグマの秘密」の中で育てられ、築かれて社会に巣立って行くことを認識されたい。
 これからのシグマの諸君はフロンティヤにつづく2代目である。インテリジエントがこれからのシグマ家の存在と進発展のため要求される。今日長屋の新居でない、表通りに一応門戸を張る工芸高校建築科なのだ。も早、社会的エチケットを身につけ、知的にも、教養にも、それにふさわしいシグマに切りかわらなければ、この時代、この科学インスタント時代について行けない。切に若いシグマ諸君のシグマ2代目への建設のため勉強と精進を祈ってやまない。
1961.1.11記

今日から13号をFBに掲載しています。


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