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シグマ会 会誌第13号 昭和36年(1961)発行
はじめのことば 1~2ページ
シグマの秘密 会長 山本利雄
・・・・前略・・・
 初めの頃 わが建築科への志願者は少なく定員に充たない時もあった。正に悲壮であった。その時分、志願者の調整事務が行われ、私は今宮工高へ不足分をもらいに行ったことがある。先方で落ちたうち良いものを拾ってわが校へ入れる訳である。情けない思いであった。外「工芸高校てどこにあるんや」「建築科があるのか」と足を棒にして日夜 祭日も日曜も歩き疲れて市内の業界者へ飛び込んだ時の言葉がこれであった。そして内 製図板1枚、机1つもなかったのだ、いや、それどころではない、居る場所すらなかった。全部図案科の借り物で、教員も同科に食客になったり。講堂に間仕切りして過ごしたものであった。無名で伝統なく、質い於いて一歩を譲るといった当時のわが科の姿はこの様に貧弱なものであった。そのさなか、毎日毎日芋ばかり弁当にもってくる子、授業料不払い長期の子、身も心も愛情にえう、やせ細った貧弱な子等が私達にまっわりつくのだ。太陽を求め 温かいものを求めて・・・・・私達も同じくやせて貧弱さに変わりはなかった。むしろ原始的なオロチョン部落といえよう。そして「叱り」「反抗し」「論じ」・・・・・
やっと生徒も先生も一緒に建築を勉強したのだ。
 当時の焼き芋の味かなっかしい。冷たい空間に、貧しい親と子が1ヶのほのかに温かい芋を分け合った。うれしさは今日得られない「人の味」である。焼き芋が今川焼きになり、うどんになり、ラーメンをすすり合うまでに成長した。・・・・・優等生も末席の子等も同じシグマの子であった。「てんかんの子」も「ヒロポンを打った子」も「イレズミをした子」も「異父母の子」も「ガールフレンドを2人もつ子」もシグマの大切なわが子であった。他校に比べて底抜けの人の好い正直な子であることを私は捉へてしまった。すべてが彼等のせいではないのだ、貧しい私等によりそってくるのだった。・・・・
 新春61年は明けた。あれから10年たっている。正月早々の私の家に自家用車が1台止まった。初めてわが家に止まったシグマの子の車である。私をのせたその車は京都へ、私は伏見稲荷神前にシグマの開運を喜び、シグマの祝詞を祈祷した。焼き芋の代わりに豪華な鍋をつつき合うことになった。幕の25日から正月の8日迄に私は1日も休むことなくシグマの子等の招宴に列して、晴れ姿に幸福な目をうっとりさせた。シグマの子等のもてなしに喜ぶだけでなく。あの貧弱な子等の中に生きていた「尊い魂」が生命を吹き出したのが私の至幸に酔った訳だった。夫々の予紡=「飛行機による上京」、「車による九州1周」「上高地への連行」「北海道への旅」・・・・シグマのわが子からの申し入れなのだ。一々応じていたら私の身体がもたないし。あるものは子等の「夢」でもあろう。シグマの子等は自分だけでなく「私等と一緒に幸福」になりたいのだ。
 
 それだから、それでも他に比べて未だしのこの地方の一高校建築科の数質、社会的地位の低さ。一口に総じて未だ「若い」わがシグマの今日がうれしく、尊いのである。こうした「シグマの秘密」の一端を初めて私は諸君に紹介したのである。
 こうした基盤の上にたつのがわが建築科であり。シグマであることを知ってほしい。諸君は、この「名もなく 貧しく しかし不動のシグマの秘密」の中で育てられ、築かれて社会に巣立って行くことを認識されたい。
 これからのシグマの諸君はフロンティヤにつづく2代目である。インテリジエントがこれからのシグマ家の存在と進発展のため要求される。今日長屋の新居でない、表通りに一応門戸を張る工芸高校建築科なのだ。も早、社会的エチケットを身につけ、知的にも、教養にも、それにふさわしいシグマに切りかわらなければ、この時代、この科学インスタント時代について行けない。切に若いシグマ諸君のシグマ2代目への建設のため勉強と精進を祈ってやまない。
1961.1.11記

今日から13号をFBに掲載しています。
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