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平成25年度 第2回シグマ会・役員会 議事録抜粋
平成25年 7月24日工芸会室 18:30~19:30
出席者;東野忠雄 会長(S37年卒)、
糟谷修 副会長(S40年卒)、
稲本正吾 会計(S47年卒、教職員)、
濱田義之 書記(S53年卒)
上杉正人(S42年卒)、片岡郎(S63年卒)、
小林貴世子(H4年卒)、
小原 博(教職員)、辻賢太郎(教職員)、
西村博之(教職員)、前川 敏(教職員)
議事
1.総会の反省と今後の運営について
総会後の懇親会的な昼食等を次回は考慮し、会員の意見交換と
親睦を図る等の検討を行う。
2.本年度事業運営について
・9月7日の交流会のスケジュール調整と、会費について
電車の本数が少ないので、余裕のある時間設定とし、
小学生以下の参加は会費無料とすることに決定。
・シグマ賞審査会は、来年度は第1日目に行う。
審査委員の数を増やす等の検討を行う。
3.工芸高校90周年事業委員会の報告
8月21日に事業委員会があり、ライトアップの試験点灯を行う。
祝賀会のチケットは、当初予定分は完売しておりますが、現在
5名程の追加申し込みあり対応しております。
4.募金状況説明と今後の対策
本年度分として、4月以後も約7万程の募金がありました。
その他、祝賀会チケット代金も全て入金されました。
5.シグマ会65周年事業について
来年で、シグマ会設立65周年になると共に、工芸に建築科が
設置されて70周年になることから、記念式典を実施する。
記念式典は仮に「建築科創設70周年記念記念式典(シグマ会
創設65周年記念)」として、建築科・建築デザイン科出身者の
合同同窓会的な内容で、建築科・建築デザイン科旧職員・現職員
に、建築科の担任をなされた普通科の先生方も集まって頂いて
実施する計画をたてる。
平成25年7月吉日
シグマ会役員各位 様
シグマ会会長 東野 忠雄
シグマ会役員会のお知らせ
前略
平素は、シグマ会の運営にご協力たわまり、ありがとうございます。
先日、総会を行いました際には、ご協力ありがとうございました。
つきましては、定例役員会を下記日時で開催しますので、
皆様のご出席をお願いします。
尚、出欠のご返事はTELまたはFAXにて稲本までご連絡ください。
もちろんメールにての出欠の返事でも結構です。
草々
記
日 時 平成25年 7月24日(水)18時30分
場 所 大阪市立工芸高等学校 2号館1階 工芸会室
案 件 1 今後の運営(交流会等)について
2 その他
出欠連絡 平成25年 7月22日(月)までにTEL
またはFAXにてお願いします。
大阪市立工芸高等学校 建築デザイン科 稲本まで
建築デザイン科職員室 直通
TEL・FAX共 06-6623-0469
以上よろしくお願い致します。
また、役員以外の方でも、ご協力頂ける方や、今後の運営方針に
ご意見があればご参加下さい。
または、メールでも結構です。
シグマ会メールアドレス sigma@home.nifty.jp
シグマ会 会誌第10号 6頁
裏切者 笹川 博敏 (3期生)
近頃になって、ボクは罪深い夢をよく見えるようになった。
黒ずんだ製図板の上にのったT定規とカラス口の幻影である。
こんな悪夢に悩まされるからといって、別に贖罪しようなどという気は毛頭ないけれども、
寝覚めのいいものではない。
ボクがT定規を捨ててから六年余りになるが、今までこんな嫌な夢を見た覚えがないだけに、
何かうしろめたい思いだ。こんな事を書くと母校に悪いけれど、もはや忘れ去ってしまった筈の
思い出が記憶力の良くないボクの脳裏に刻みこまれているとすれば、
母校を裏切った因業応報というやつかも知れない。
ボクが工芸学校へ入学したのは、ボクの意志ではなかった。
オヤジが図案科卒業の大先輩だというまったく無意味な親馬鹿チャンリンで
入学させられてしまつたのが真相である。
もっとも、ボクだってオヤジの正当な血を引いているのだから、
薄い毛髪を掻きむしりながら製図板に向かっていたオヤジの哀れとも悲壮ともつかぬ姿に
ある種の畏敬の念を抱いていたことは否定出来ないけれども、
叔父も同じ工芸の図案科卒業生だったという悪条件と、それに、
当時は普通の中学校へ入ると予科練などに行かなければ家門の恥辱などという
おせっかいな社会状勢だったし、戦争も怖いし、オヤジが絵筆を握って兵役を
まぬがれていたから、ノコノコと奈良の山猿が、
まるで牢獄のような赤レンガの校門を潜ったわけである。
・・・・中略・・・・
大学の文科へ入った少年は、今東光という心の支柱を得て、
脱兎のごとく破滅への道を駆け出した。
少年が立ち寄るところには必ず事件が起こった。
ここでボクは愚かな少年のために、母校の恩師、先輩、それに同級生の諸氏に
謝罪しなければならない、少年が惹き起こした不祥事は、
すべてボクに免じて赦してやつていただきたい。
悪気のある奴ではないのである、就職運動もせずに、
己の夢に酔いつつ少年が紅燈の港を彷徨し、焼酎臭い息を吐きながら文学論を
喋り散らしている時でも腐敗した脳の片隅では諸兄にわびていたのだから・・・・・
文学という麻薬のために就職口を棒に振ったこの少年は、
一段と青白き文学青年に成長し、大学院に進んだが、
彼が文学という無形の世界に沈溺することの楽しさ、それへの生き甲斐とは別に、
やはり男にはビジネスのあることをようやく悟り、またまた、
文学という最愛の人を裏切ってしまった。
工芸学校という良き母校を裏切ったと同じように・・・
テレビ放送界へ迷い込んだボクは、やっと魂の遍歴に小康を得たように思う、
良きにつけ悪しきにつけて人生の出発点であった母校を裏切り、
今また自分の宿り木から出奔したボクだけれど、まだまだ裏切り足りないと思っている。
近い将来に第三の明智光秀にならないとも限らないが、あれもこれも、
自分自身を裏切りたくないからだ。
そして、この裏切り者の土性骨を養うことが出来たのは他なら無い
母校工芸学校時代だったことを肝に銘じて忘れない。
ボクは母校を裏切ったけれども、母校がボクに教えてくれた人生への道標だけは、
これからも鼻先に、この裏切り者が、”俺はこれでも母校に貢献するために、
この悪文を書いたのだ”呟いたことを補記しておかなければなるまい。
シグマ会 会誌第10号 5頁
シグマ交友10年 蔵田 周忠(武蔵工業大学教授)
書棚の隅に茶色の袋に入れて、上には「大阪工芸」と私が毛筆で大きく書いた包みが、
今では三袋ある。-隅にと書いたけど、私としては大切に保存してある、何かの資料の一つである。
これが言うまでもなく大阪市立工芸高等学校建築科の諸君が出された”Σ”と「古塔」なのである。
なつかしくいろいろの思い出につながる資料なのである。
Σが発行10周年の記念号を出されるというので、しぐま・Σ・紫隅の第1号から取り出して
ながめている。
-昔から十年一と昔という。思えばΣだけでも一と昔のむかしからの交友なのである。
これを出した諸君を育ててこられた篠原前校長をはじめ、直接には山本科長、渡辺現校長、
それから多くの先生がたと、長い間のおつきあいである。よくもつづけて送って下さつたものと思う。
これにはもちろん諸君の山本利雄先生の並々ならぬ、友情がこめられていることを感じている。
Σの第1号の出たのが奥付を見ると、昭和24年とある。丁度偶然なことには、
私達の武蔵工大が、新制大学として立ちなおつた年でもある。もとの高等工業専門学校から
新しいシステムに切りかえて発足した大学でもいろいろの苦労があったが、
それに比べてΣを発行してきた諸君の工芸高等学校の成り立ちと経営とが、
どんなに困難な仕事であつたかは想像もできないほどだと思う。
私達の武蔵工大が、新制大学として立ちなおつた年でもある。もとの高等工業専門学校から
新しいシステムに切りかえて発足した大学でもいろいろの苦労があったが、
それに比べてΣを発行してきた諸君の工芸高等学校の成り立ちと経営とが、
どんなに困難な仕事であつたかは想像もできないほどだと思う。
お互いに発足した頃は、技術を身につけようとする若人が第一少なかった。
その道に入つてけわしい坂を登ろうと決心されたΣの先輩のような若者は、
たしかに勇気のある青年であったと、今から讃えられてよい人達だと思う。
当時混沌とした社会の中でそれらの若人をうけ入れて、守り育てて、
今や立派な技術者として働く諸君を作り上げられた校長と先生達は、
云うに云われぬ苦労をされたにちがいない。
けれども今や10年というエポックを画して、輝かしい前途を望みながら、
立派に築かれた現在の地盤の上に、堂々と足を踏ん張って立ちながら過去を振り返ることは、
過ぎ去った苦労を忘れてうれしいことである。
その共感の故に、直接間接に仲間である”Σ”と「古塔」の発展をいつも遠くから
見守ってきた一人として、10周年を迎えられたお祝いを申し上げ、
一層の御精励と御発展を祈りたい。(1958.10.31)