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記念講演会の講師を務められた先輩方々おっしゃった事に
工芸は自由だった まさに学園であったと。
思い出せば私が入学した昭和50年は所謂私服組であった。
昭和47年から服装が自由になったのである。
昭和52年の新入生から現在の制服となる。
だから私が3年生の時は、2,3年生は私服で
1年生のみ制服という状態でありました。
講師の先輩達の時分はもちろん制服であるが、
秩序ある自由だったのであろう。
私服となりその秩序ある自由が、秩序なき自由に変化して行くのが早すぎたのだろう。
たった5年程しか私服が続かなかったのだから、
しかもその変化の中に自分たちがいたのである。
仁野先輩が語っていたパチンコ屋やたばこの話しは
我々の時にもあったの思い出す。
この前に投稿した写真に写っている秋山先生が
自転車に乗って昭和町のあたりや(パチンコ屋)まで生徒を捜しに来ていた事を思い出す。
その当時は出入り自由だったからね。
朝は高校生でも喫茶店によってから登校するし、
だいたいグループ毎に行き付けの喫茶店が決まっていた。
昼ご飯も外に食べにいてた時代だった。
たばこも先生がいきなりポケットに手をつ込んできて
たばこを取っていったものだった。
もちろおとがめはなかったが、それがやがて
停学に外出禁止となる。
今はないけど校門の中に小屋があって
先生2人が生徒の出入りをチェックする。
自由が無くなってきた
いや、自分たちで自由を失う行為を行ってきたのである。
しかし、ほんとうの自由は失っていない
少なくともわたしは思う
見た目の制御はあるが、心まで制御されたわけじゃない。
学校の外には出られなくなったが、中では結構自由にやらして頂いた。
そんな中で一度、集団で遅刻したことがあり
間の悪い事に、一時間目体育の時間をさぼったのですが、
担当は森川先生そして遅刻した時に門番をしていたのが森川先生
メチャクチャ怒られ、担任を呼べと言われ
秋山先生が来て森川先生以上にメチャクチャ怒り出す。
でもこの時、秋山先生はなぜ私達が遅刻したか理由は知っておられたのですが、
知らないふりして怒ってました。
秋山先生には卒業式にも迷惑をおかけしました。
卒業式の時に行う答辞の原稿です。
事前にチェックされるのですが、
わたくしは書いて有ることと違うことをしゃべってしまい
最後に原稿を校長先生に渡すときに
校長と握手したのですが、なかなか手を離してくれなかった
案の定、秋山先生が批判されたようで、
今でも正月には秋山先生宅へお酒持って行ってます。
が、毎回夜遅くまで、時には朝までおじゃまして
いまだに迷惑かけてますね<(_ _)>
S53卒.濱田
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