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BBQ
この5日は、私のクラスと恒例のBBQをやりました。
もう何年前からかわすれましたが、毎年新年の第二土曜日とこのゴールデンウィークは集まってます。
場所はJR王寺から少し行った 桜と紅葉で有名な三室山下の竜田川の河川敷公園です。
我々が始めた頃は、我々以外はほとんどいませんだしたが、最近この場所でやる人が増えてきました。
なぜここでやるかと言うと、場所が丁度良いです。
トイレもあり、無料駐車場もあるのですが、なんと言っても友人宅が近くにあるので、
毎年手ぶらで行かさせて頂いてます。それに担任だった秋山(形山)先生の自宅が、
ここから近いところにあるのも理由の一つです。
BBQと言っても初期の頃は ほんとBBQでしたが、途中イタリアンもどきになったりして、
今回は焼き鳥と、友人の息子が水産大学校に行ってるので、山口からサザエを持参してくれました。
以前は飲み会やゴルフもよくやってましたが、仕事の都合で人数が揃わなくなりましたが、
この企画だけは後何年つづくかわかりませんが、つづけて行きたいです。
写真はクイックして頂くと鮮明になります。
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秋山先生
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記者 昭和53年卒 濱田義之
 
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 私が工芸に入学したのが、昭和50年(1975年)でした。私の住む近所の人なら西野田か都島に行くだけど、工芸にしたのはなんでだろうか、やっぱ私服やったからかな、今は制服になりましたし、私よりも古い時代はもちろん制服ですが、あれは学生運動華やかしき時代の流れですね。60年安保、70年安保と来て浅間山荘事件の後、そのエネルギーは下火になったと言うか、世間の関心が無くなっていった時代です。
 80年安保以後たいしたニュースにもならなかった気がする。赤軍派も海外に拠点を移したことにより、国内は無関心になったのでしょうか、それ以前は学校のサークルにも社会研究みたいな左よりの研究会なんかもあつたようですが、わたしの頃は無くなっていました。青春を謳歌してたのか、し過ぎたのか私の2年後輩から制服に変わりましたし、学校の出入りが自由に出来なくなつてしまつた。それ以前は昼食にも学校外に行って食べてた人も結構多い。それでか、学食の記憶が薄いのは。
 後、授業を抜け出してパチンコに行ってた奴や、部室で麻雀やってた奴もいましたが、担任が後に工芸の校長になった秋山(形山)謹三先生でしたが、我々が初めての担任だったらしく熱心な先生で、自分の授業が無いときには、教室に来て出席簿をチェック。抜け出した奴がいたら自転車に乗って探しに行ってました。最初に探しに行くのは、昭和町のアタリヤで、ここで見つかった奴は結構いました。
 工芸出身で活躍されている人は多くおられますが、私の頃は2年先輩には、歌手の麻倉未稀(本名:村上 徳子)さんのおねいさんで、ミス・ユニバース 近畿地区代表の村上美和子(高橋美和子)さんがおられました。図案科で現在もモデルとしてご活躍しておられます。
 1年先輩には木材工芸科に俳優の時任 三郎(ときとう さぶろう)さんがおられました。
 私服だから普段からおしゃれな人はいましたが、初めて参加した卒業式の華やかさには驚きましたよ。これは高校の卒業式かと、こんな装いで行われる卒業式は、あのころの工芸でしか今も見られないと思ってます。
 1年後輩には、漫画家の多田 かおる(図案科)さんがおられましたが、1999年に若くしてお亡くなりになりました。
 いつも比較されるのは同じ市立の都工ですが、都工とは対照的に工芸は個性的で、まとまりに欠ける所がありますが、それが最大の取り柄なのだと。

記者 濱田 義之(昭和53年卒)

P1010405.JPG
大阪城公園の梅林はこれからが梅の見頃
今年はすこし遅咲きのようです。
梅林の帰りにこの堀で思い出す。
今は水が満ちた堀ですが、私が高校生のころは、水はなくグランドになっていた。
当時はラグビーのグランドが二面あり、端で野球が出来るぐらいだったかな。
市立大会なんかはここでやった記憶があります。
いつだったか、築城400年記念かで整備されたのかな、
でも今でもかわらないのは、この堀に面して中央にある。
パーゴラ付きのベンチ辺りは当時のままです。

記者 濱田 義之
それは、いつの頃まで存在したのかわからないが、少なくとも私が卒業した昭和53年には存在しました。
 しかし、現在は無くなったようである。平成と呼ばれるまでに無くなったようですが、女学生が増えたことも要因としてあったのか、はたまた違う理由なのかわからないが現在はない。
 それはなにかと言えば新入生歓迎会である。もっとも他の科はそれなりに歓迎会があったようだが、建築科の歓迎会は独特である。歓迎会当日は、一人の新入生を逃さないように、授業の終わる少し前に先輩達が一年生の教室の前で待ちかまえているのである。そして一年生全てを当時は製図室に連れて行き、最初にさせるのは「ど根性」と叫ばすのである。まずこれが出来ないと前に進まない。足を広げて腰を落とし、両手は膝の上におく、そして腹の底から地面に向かって「ど~こんじょ~う」て叫ぶわけで、これが出来ないと次に進まない。以後建築科の生徒はこのフレーズをよく叫ぶことになります。
 次は応援歌を覚えさせられる。三曲あるんですが、第二工芸があるから時間内に覚えなあかんので大変。
校歌はまったく覚えていませんが、応援歌だけは未だに歌える。と言ってもさすがに卒業して34年程経過したので、ややうる覚えになってきました。
 最初の一つは数え歌ですが、応援歌の元は近大の応援歌から来たようです。
 
一つとせ 広いこころに まさこごろ 結ぶ男女の建築科
そいつぁ剛毅だね そいつぁ愉快だね(後このフレーズは同じ*)
二つとせ 古い学びし建築の 君と僕は 同期生
三とせ 三笠お山の花を手に 歌えや踊れの建築生
四つとせ 寄るとさわると騒がれる 建築生の艶姿
五つとせ いつもくる船連絡船 今日も建築生を乗せてでる。
六とせ むかし懐かしい建築の その名も高きながなすび(こいつがよくわからん)
七つとせ 泣くな級友別れても みとせの違いわすりゃせぬ
八つとせ 優し乙女のままごころに 建築生はむせびなく
九つとせ ここぞ浪速津工芸の 建築生はいきでもつ
十とせ となり大谷明浄から 建築生に会いに来る
おまけとせ 尾張名古屋は城でもつ おかちゃんのおこしは紐でもつ
最後もう一つあったような気もするが、合ってますかね。
 
次の歌は途中が抜けてると思うけど思い出せない。
 
ここは浪速か 大阪町か 大阪町なら工芸高校(ここを工芸学園とする説もある。)
 
工芸高校の学生さんは 度胸一つの男伊達
 
度胸一つで 阿倍野の道を 歩いて行く来ます建築の学生
 
ぼろはまとえど心は錦 どんなものにも恐れはせんぞ
 
どんなものにも恐れはせんが 可愛いあの子にや かなやしない
 
可愛いあの子はいつでも捨てる 母校の為なら命までも
                                        母校の為なら命までも
 
なんか中間あたりが違う気がする。
 
最後の一曲はかなりあやしい
 
あ~工芸の殿堂に 雄叫び励む時は来ぬ
今ぞ我らが奮い立ち 深紅のひはい打ち立てん
見よやこの覇気天を抜く 月桂冠はわれにああり
 
あ~浪速津の工芸に 雄々しくたたん時はいま
逆巻く怒濤を なにかせん けんじ我らに誇りあれ
くめや勝利の美酒を その名も高き工芸高校
 
この曲は全然だめですね。三番まであったと思うけど、皆さん覚えてますか、ご存じの方ご教示下さいませ。
他の科もほぼ同じような応援歌があったと思うが、覚えてますか?
 
記者 濱田 義之
 
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