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富士山が世界遺産に登録され、登山ブームになりそうですが、
最近のニュースを見ると、軽装で登山を行い救助される人が後を絶たないようです。
そんな山に関わるお話を、当時の建築科教官の佐江木先生が熱く語ってます。

シグマ会 会誌9号の記事からページ(17)-(19)
夢と若さを摘むな!    佐江木 了治
 先づはじめにこの考え方と主張は、私をつつむ多くの人々の考えであり、主張であることをことわっておく。これは私達をめぐる人々の願いであり退き得ない一線である。
 
 〔発 端〕
 こんな話しが私達をおどろかした。-
 去る3月中旬、ある高校の山岳部員1名と部外者1名とで、学校にも顧問にも知られることなく、又他の部員にも知られることなく、大台ヶ原へ強引な雪中登山が行われた。2名は頂上近くの稜線で、稀にみる暴風雪にあい。絶望的な戦いの末。惜しくも山に生命をささげてしまった。その事は家族の人々がさわぎ出し、兄弟を通じての友好団体である別の高校山岳部から救援隊が出されるまで知られることなく、ほっておかれていた。
 
 新聞で顧問の先生がはじめてその事件を知った時は既に遅かった。その結果が猶更いけない。この事を理由として、山岳部は(当時第1級の活動をし前途が羨まれていた)解散を命ぜられ、積み上げて来た。尊いすべての行為が消滅しなければならなくなってしまった。
 
 高校生のみが山へ飛び込むことはそれでも無謀ではない。若しこの2人の生徒が、顧問にこの話しを持ち込み、楽しく話し合えたならば、冬山のきびしさと大台ヶ原の特殊性その他についてもっと多く知り、よし同じ条件で同じ遭難現場に達したとしても、それでも、山の幸を身につけて下山して来たと信じる。顧問の先生は人間的に非常に良い先生だという定評があり、部員とはたえず親しい交際があったし、尊敬されていた。この問題は、その生徒をして顧問と話し合えないようにした学校の空気に原因があると思う・・・・!
 
 北海道でこんな事があった。
 新しい顧問の先生と、高校山岳部の生徒数名がある渓谷の遡行から山稜にとりつこうとした。途中できいた小学校校長さんの情報を唯一のたよりとして、ザイルもなしに岩場に飛び込んでしまった。リーダーと先生との間に話し合いがあり、リーダーの案に決して、ロッククライミングが展開された。しかし、悪いことに岩場は上部がややけわしく、ザイルなしでは本当に危険であったかも知れない。先生の指令を待つ間もなく、リーダー以下数名はここを通過し、先生以下数名が残された。このとき、初心者数名がつづけさまに墜落し、生命を山に捧げる結果になってしまい、遂に刑事問題にまで発展したという。この問題は顧問が入れかわったことにありそうだ。前の顧問はすぐれた岳人であり、その教育をうけて、技術的なものでは生徒の方が上であったと考えられる。生徒は自然人間的には未熟なリーダーの方を信頼していたと考えられる。そうさせたことに問題があったと思う。
 
 最近特にさわがれ出した高校生の山での遭難事件の情報に接し、思いをめぐらすとき、又その後の処置についての報告をきくとき、血が止めるような思いがするのは私達だけではないと思う。夢と若さがいたずらに放任されて、山につながった青春の犠牲に於いて、高校生の行為が誤解され、結果、青春の夢と若さが摘み取られて行くことに、烈しい憤りを感じるのは岳人すべての共通した心情だと思う。
 
 〔夢と若さを守ろう〕
 かって危険という理由で、夏の北アルプスのハイキングコースを行くことすら出来なかった時があつた。戦時中の中学校の抑圧された環境では、山岳部が発生する余地すらなかった。しかし、我が国の岳界をおこし、ささえたものは、それでも学生のもつ若く美しい夢とそれを実現させようとする青春の若さであった。かって、穂高岳の岩場を開拓し、北アルプスの積雪期の山々を開拓した人々は、現在の高校生の年齢を少し上まわる人々であったときいている。裏剱の開拓に魚津市の新制高校の人々も参加したことを銘記しよう。私達の裏剱で求めた体験の結果は、明日では体力的にも清新的にもおそすぎるということだ。OBの共通した意見は、高校時代に出来る限りのことをしなければ、結局、山の幸はつかまえ得られないという事だ。そして、アルピニズムの基底をつくるものは結局若人のもつ夢と若さであり、これは若人のもつ最も尊いものではないか!私達はその上にこそ成立したのだ。そうして何故私があえて夢と若さを守るべきテーマを設けたのか?それは現在、さまざまなもっともらしい理由を盾にとって、私達から夢と若さをつみとる動きが可成あるという事だ。かかる動きに対しては、明日のために断固斗うべきだと思う。
 
 明日を生きるためには、現在の青春を完全に生きるべきた。青春の幸は再びやって来るものではない。青春の感激は一生涯を支配し、体験はその人の灯台ともなろう。そうして青春のもつ独特の夢と若さがその生命ではないか。
 
 太平洋戦争と友に破滅した筈のものを、再びおしつけることを止そう。かって、国民(大多数)がただ馬車馬的におしつけられたものを無批判にうけ入れた美徳の結果が現在の不幸の大部分をきずいたわけだ。若者のモラルはあたえられるものではなく、輝かしい明日のために自らの手できずきあげるべきものなのだ。何故に若い世代が古い世代に反抗しているか?その意味を知ろう。また、若い世代を全面的に信頼することを学びとろう。更に明日を生み出す若い世代の健全な夢を尊重しよう。今一度、若い世代と共に、大概はゴマかしてしまった共通の問題に苦しんで見ようではないか。現在、それが出来る位の若さが古い世代に欠けているとしても!
 
 現在は教育の危機だと識者はいっている。教育基本法に謳われていた筈の人間の形成が単なる題目に終わり、進学と就職をタテにとって、いたずらに萎縮した人間の大量生産をもくろんでいる。このような人々は、かってあの大戦争を喰い止め得なかったではないか。たとえそれが理想化された人間像であったとしても、明日を生きる力のない人間にしかなり得ないのだ。
  
 今こそ私達は、自分自身を深くみつめ、明日を生きる生き方を徹底的に究明すべきときであるが、一体、教育のどの部門がそれを受けもっているのか。多くの生徒をして、そのよろこびの中で、生涯の人間として生き方の基礎を築くべきクラブ活動と、それを含む一連の教育活動は、多くの生徒の声と行動にもかかわらず、何故、お座なりの低調なものにおさまらねばならないのだろう。
 ( 佐江木 了治先生1951.9~1962.3まで建築科の教官)
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