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残念ながら一番古い号は4号しか残ってません。
この年建築科はついに自前の教室を確保する。
そんな話しやら、建築科が無くなるかもといった話しが掲載され、
シグマ会草創期の模様がよくわかります。
実際の文章はフェースブックの方を御覧下さい。
この年建築科はついに自前の教室を確保する。
そんな話しやら、建築科が無くなるかもといった話しが掲載され、
シグマ会草創期の模様がよくわかります。
一部掲載する
「予算をともなわず本校に併設されたわが建築科は自己の教室をもたず、製図机・製図版一枚なき建築科であって全く図案科に同居させてもらっていた。それも永い間続いたのである。今年は二階に実習室を、今年は三階に、今年は二階と三階に分れ分れに、今年は教官室は実習室とは、はるかに離れた一隅に、遂に今年は講堂に実習室を移すといったふうに転々漂泊人の如く建築科の本拠が校内のそちらこちらに動いて行った。」
「予算をともなわず本校に併設されたわが建築科は自己の教室をもたず、製図机・製図版一枚なき建築科であって全く図案科に同居させてもらっていた。それも永い間続いたのである。今年は二階に実習室を、今年は三階に、今年は二階と三階に分れ分れに、今年は教官室は実習室とは、はるかに離れた一隅に、遂に今年は講堂に実習室を移すといったふうに転々漂泊人の如く建築科の本拠が校内のそちらこちらに動いて行った。」
「篠原校長御赴任少し以前廃科問題さへ起つてきた。科長欠員の若い故藪中、斎藤、上辻先生の胸中はどうであったろう。 この建築科を背負う二十三、四才の三青年には余りにも大きな問題であった。つぶれるか、生きるか、に当面した三先生は立ち上った。生徒の父兄を一々訪問して協力を得た。事ならずば、いざさらば工芸;都島工高建築科に生徒を引きつれ移って行く決心をし、内々都島の長尾科長の内諾を得た。悲そうであった。引きつれていったら生徒は食客のように淋しかろうと諸先生は正に暗澹とした気持ちになられた。この間当時の篠原視学、長尾先生の御温情は絶大なものであった。
今日ここにわが工芸の建築科が存続するのは情熱と気魂の藪中先生、冷静明哲の斎藤先生、黙々誠実の上辻先生のトリオの堅き団結と篠原先生、長尾先生の五恩人のお陰と伝ひたい。」
実際の文章はフェースブックの方を御覧下さい。
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