忍者ブログ
  



[ 1 ]  [ 2 ]  [ 3 ]  [ 4 ]  [ 5 ]  [ 6 ]  [ 7 ]  [ 8 ]  [ 9
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

シグマ会 会誌第13号 昭和36年(1961)発行
はじめのことば 1~2ページ
シグマの秘密 会長 山本利雄
・・・・前略・・・
 初めの頃 わが建築科への志願者は少なく定員に充たない時もあった。正に悲壮であった。その時分、志願者の調整事務が行われ、私は今宮工高へ不足分をもらいに行ったことがある。先方で落ちたうち良いものを拾ってわが校へ入れる訳である。情けない思いであった。外「工芸高校てどこにあるんや」「建築科があるのか」と足を棒にして日夜 祭日も日曜も歩き疲れて市内の業界者へ飛び込んだ時の言葉がこれであった。そして内 製図板1枚、机1つもなかったのだ、いや、それどころではない、居る場所すらなかった。全部図案科の借り物で、教員も同科に食客になったり。講堂に間仕切りして過ごしたものであった。無名で伝統なく、質い於いて一歩を譲るといった当時のわが科の姿はこの様に貧弱なものであった。そのさなか、毎日毎日芋ばかり弁当にもってくる子、授業料不払い長期の子、身も心も愛情にえう、やせ細った貧弱な子等が私達にまっわりつくのだ。太陽を求め 温かいものを求めて・・・・・私達も同じくやせて貧弱さに変わりはなかった。むしろ原始的なオロチョン部落といえよう。そして「叱り」「反抗し」「論じ」・・・・・
やっと生徒も先生も一緒に建築を勉強したのだ。
 当時の焼き芋の味かなっかしい。冷たい空間に、貧しい親と子が1ヶのほのかに温かい芋を分け合った。うれしさは今日得られない「人の味」である。焼き芋が今川焼きになり、うどんになり、ラーメンをすすり合うまでに成長した。・・・・・優等生も末席の子等も同じシグマの子であった。「てんかんの子」も「ヒロポンを打った子」も「イレズミをした子」も「異父母の子」も「ガールフレンドを2人もつ子」もシグマの大切なわが子であった。他校に比べて底抜けの人の好い正直な子であることを私は捉へてしまった。すべてが彼等のせいではないのだ、貧しい私等によりそってくるのだった。・・・・
 新春61年は明けた。あれから10年たっている。正月早々の私の家に自家用車が1台止まった。初めてわが家に止まったシグマの子の車である。私をのせたその車は京都へ、私は伏見稲荷神前にシグマの開運を喜び、シグマの祝詞を祈祷した。焼き芋の代わりに豪華な鍋をつつき合うことになった。幕の25日から正月の8日迄に私は1日も休むことなくシグマの子等の招宴に列して、晴れ姿に幸福な目をうっとりさせた。シグマの子等のもてなしに喜ぶだけでなく。あの貧弱な子等の中に生きていた「尊い魂」が生命を吹き出したのが私の至幸に酔った訳だった。夫々の予紡=「飛行機による上京」、「車による九州1周」「上高地への連行」「北海道への旅」・・・・シグマのわが子からの申し入れなのだ。一々応じていたら私の身体がもたないし。あるものは子等の「夢」でもあろう。シグマの子等は自分だけでなく「私等と一緒に幸福」になりたいのだ。
 
 それだから、それでも他に比べて未だしのこの地方の一高校建築科の数質、社会的地位の低さ。一口に総じて未だ「若い」わがシグマの今日がうれしく、尊いのである。こうした「シグマの秘密」の一端を初めて私は諸君に紹介したのである。
 こうした基盤の上にたつのがわが建築科であり。シグマであることを知ってほしい。諸君は、この「名もなく 貧しく しかし不動のシグマの秘密」の中で育てられ、築かれて社会に巣立って行くことを認識されたい。
 これからのシグマの諸君はフロンティヤにつづく2代目である。インテリジエントがこれからのシグマ家の存在と進発展のため要求される。今日長屋の新居でない、表通りに一応門戸を張る工芸高校建築科なのだ。も早、社会的エチケットを身につけ、知的にも、教養にも、それにふさわしいシグマに切りかわらなければ、この時代、この科学インスタント時代について行けない。切に若いシグマ諸君のシグマ2代目への建設のため勉強と精進を祈ってやまない。
1961.1.11記

今日から13号をFBに掲載しています。
PR
建築科・建築デザイン科の縦の会であるシグマ会の平成25年度 交流会のお知らせ
平成25年 9月 7日土曜日 9:30~15:00
そうめん延ばし体験 三輪神社周辺見学
詳細はチラシを参照下さい。
当日は、古文化研究会を中心にした工芸生にも声を掛けております。
皆様ご参加下さい。他の科の方でも結構です。
お子様が参加される場合は、そうめん延ばし体験をお子様とご一緒になさるか、
あるいは別々にされるかによって料金が変わります。
昼食についても、お子様の分が不要な方等は、事前に申し込み用紙にその旨ご記入下さい。

昨日(7日)下見に行ってきました。
天気が良すぎて日焼けするは、くたくたにもなってしまいました。
下の写真等はクリックして拡大して御覧下さい。

富士山が世界遺産に登録され、登山ブームになりそうですが、
最近のニュースを見ると、軽装で登山を行い救助される人が後を絶たないようです。
そんな山に関わるお話を、当時の建築科教官の佐江木先生が熱く語ってます。

シグマ会 会誌9号の記事からページ(17)-(19)
夢と若さを摘むな!    佐江木 了治
 先づはじめにこの考え方と主張は、私をつつむ多くの人々の考えであり、主張であることをことわっておく。これは私達をめぐる人々の願いであり退き得ない一線である。
 
 〔発 端〕
 こんな話しが私達をおどろかした。-
 去る3月中旬、ある高校の山岳部員1名と部外者1名とで、学校にも顧問にも知られることなく、又他の部員にも知られることなく、大台ヶ原へ強引な雪中登山が行われた。2名は頂上近くの稜線で、稀にみる暴風雪にあい。絶望的な戦いの末。惜しくも山に生命をささげてしまった。その事は家族の人々がさわぎ出し、兄弟を通じての友好団体である別の高校山岳部から救援隊が出されるまで知られることなく、ほっておかれていた。
 
 新聞で顧問の先生がはじめてその事件を知った時は既に遅かった。その結果が猶更いけない。この事を理由として、山岳部は(当時第1級の活動をし前途が羨まれていた)解散を命ぜられ、積み上げて来た。尊いすべての行為が消滅しなければならなくなってしまった。
 
 高校生のみが山へ飛び込むことはそれでも無謀ではない。若しこの2人の生徒が、顧問にこの話しを持ち込み、楽しく話し合えたならば、冬山のきびしさと大台ヶ原の特殊性その他についてもっと多く知り、よし同じ条件で同じ遭難現場に達したとしても、それでも、山の幸を身につけて下山して来たと信じる。顧問の先生は人間的に非常に良い先生だという定評があり、部員とはたえず親しい交際があったし、尊敬されていた。この問題は、その生徒をして顧問と話し合えないようにした学校の空気に原因があると思う・・・・!
 
 北海道でこんな事があった。
 新しい顧問の先生と、高校山岳部の生徒数名がある渓谷の遡行から山稜にとりつこうとした。途中できいた小学校校長さんの情報を唯一のたよりとして、ザイルもなしに岩場に飛び込んでしまった。リーダーと先生との間に話し合いがあり、リーダーの案に決して、ロッククライミングが展開された。しかし、悪いことに岩場は上部がややけわしく、ザイルなしでは本当に危険であったかも知れない。先生の指令を待つ間もなく、リーダー以下数名はここを通過し、先生以下数名が残された。このとき、初心者数名がつづけさまに墜落し、生命を山に捧げる結果になってしまい、遂に刑事問題にまで発展したという。この問題は顧問が入れかわったことにありそうだ。前の顧問はすぐれた岳人であり、その教育をうけて、技術的なものでは生徒の方が上であったと考えられる。生徒は自然人間的には未熟なリーダーの方を信頼していたと考えられる。そうさせたことに問題があったと思う。
 
 最近特にさわがれ出した高校生の山での遭難事件の情報に接し、思いをめぐらすとき、又その後の処置についての報告をきくとき、血が止めるような思いがするのは私達だけではないと思う。夢と若さがいたずらに放任されて、山につながった青春の犠牲に於いて、高校生の行為が誤解され、結果、青春の夢と若さが摘み取られて行くことに、烈しい憤りを感じるのは岳人すべての共通した心情だと思う。
 
 〔夢と若さを守ろう〕
 かって危険という理由で、夏の北アルプスのハイキングコースを行くことすら出来なかった時があつた。戦時中の中学校の抑圧された環境では、山岳部が発生する余地すらなかった。しかし、我が国の岳界をおこし、ささえたものは、それでも学生のもつ若く美しい夢とそれを実現させようとする青春の若さであった。かって、穂高岳の岩場を開拓し、北アルプスの積雪期の山々を開拓した人々は、現在の高校生の年齢を少し上まわる人々であったときいている。裏剱の開拓に魚津市の新制高校の人々も参加したことを銘記しよう。私達の裏剱で求めた体験の結果は、明日では体力的にも清新的にもおそすぎるということだ。OBの共通した意見は、高校時代に出来る限りのことをしなければ、結局、山の幸はつかまえ得られないという事だ。そして、アルピニズムの基底をつくるものは結局若人のもつ夢と若さであり、これは若人のもつ最も尊いものではないか!私達はその上にこそ成立したのだ。そうして何故私があえて夢と若さを守るべきテーマを設けたのか?それは現在、さまざまなもっともらしい理由を盾にとって、私達から夢と若さをつみとる動きが可成あるという事だ。かかる動きに対しては、明日のために断固斗うべきだと思う。
 
 明日を生きるためには、現在の青春を完全に生きるべきた。青春の幸は再びやって来るものではない。青春の感激は一生涯を支配し、体験はその人の灯台ともなろう。そうして青春のもつ独特の夢と若さがその生命ではないか。
 
 太平洋戦争と友に破滅した筈のものを、再びおしつけることを止そう。かって、国民(大多数)がただ馬車馬的におしつけられたものを無批判にうけ入れた美徳の結果が現在の不幸の大部分をきずいたわけだ。若者のモラルはあたえられるものではなく、輝かしい明日のために自らの手できずきあげるべきものなのだ。何故に若い世代が古い世代に反抗しているか?その意味を知ろう。また、若い世代を全面的に信頼することを学びとろう。更に明日を生み出す若い世代の健全な夢を尊重しよう。今一度、若い世代と共に、大概はゴマかしてしまった共通の問題に苦しんで見ようではないか。現在、それが出来る位の若さが古い世代に欠けているとしても!
 
 現在は教育の危機だと識者はいっている。教育基本法に謳われていた筈の人間の形成が単なる題目に終わり、進学と就職をタテにとって、いたずらに萎縮した人間の大量生産をもくろんでいる。このような人々は、かってあの大戦争を喰い止め得なかったではないか。たとえそれが理想化された人間像であったとしても、明日を生きる力のない人間にしかなり得ないのだ。
  
 今こそ私達は、自分自身を深くみつめ、明日を生きる生き方を徹底的に究明すべきときであるが、一体、教育のどの部門がそれを受けもっているのか。多くの生徒をして、そのよろこびの中で、生涯の人間として生き方の基礎を築くべきクラブ活動と、それを含む一連の教育活動は、多くの生徒の声と行動にもかかわらず、何故、お座なりの低調なものにおさまらねばならないのだろう。
 ( 佐江木 了治先生1951.9~1962.3まで建築科の教官)
今日からFacebookにて、掲載を始めました。
シグマ会Facebookfはhttps://www.facebook.com/sigmakai

下記画像はクリックして拡大できます。

シグマ会 会誌8号の記事からページ(35)-(40)
1955年度の歩み 報告と感謝
 昨秋(1954年)永年の校長先生始め諸先生の苦節なり鉄筋コンクリートの新校舎が竣工して、一階に実験室、暗室、教官室、第二階に三年生の製図室と一年生のホームルーム、第三階に一年、二年生の製図室を建築の本拠として定められ。わが建築科も新しい学習の場を有ち出発した。1955の陽春、新学期より実験器機、施工器機、標本等の設備も新しい容にふさわしく夫夫完備して再出発した。
 いよいよ、わが科の新しい途が永遠に開けた。教官の構成も数年前に比して充実された。教論4名。従来通り建築教育界の大先達渋谷五郎先生。今年よりデッサン教授のため一水会の松田忠一先生の両講師。実習教官として2名、計8名の人容に夫々専門を担当して頂くこととなり、立派な構成で発足した。
 生徒諸君も新しい器で、新しく知的な建築の途を前進した。
(渋谷 五郎(シブヤ ゴロウ) 1919年東京工業高等学校卒業。大阪市立都島工業高校教諭を経て、元大阪工業大学講師。芝川ビルディング(1930年、大阪市中央区、基本設計・構造設計を担当登録有形文化財)
 松田 忠一 (まつだ ちゅういち)明治27年~昭和58年 享年90才  出雲市出身
大正7年、東京美術学校を卒業、木村武山、平田松堂について日本画を学び仏画や宗教画に早くから手腕を発揮する。大正14年に渡欧し2年間油彩を研究し帰国。昭和7年再度渡欧、翌年帰国。以来洋画の基礎にたって日本画の美点を取り入れた独自な道を開拓する。
この頃、高津中学、天王寺師範等で教職についている。)
  昔は、渋谷先生や松田先生以外にも、武蔵野工業大の蔵田 周忠先生等、教育界の大先達な方々の教えを直に受けていたようです。
忍者ブログ   [PR]