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紫偶会誌5号の記事からページ(27)より
・砕・啄・同・時 建二 戸田一郎
 おじいさんところの裏の源じいさんは、今朝もにわとりの世話に余念がない。
雛を育てることは、じいさんの得意だ。
 春さきから夏にかけて母親の懐にむらがる可愛いいヒヨコを見られるのも、
田舎へ行くたのしみの一つだ。
「お早よう!」
と、朝のあいさつを終えて、一くさりヒヨコの自慢話をきくのも、田舎での一日の
日課である。ところが、今朝の彼は半分破損した玉子を三個ばかり手にしながら、
いつもと打って変わって、しょんぼりした口調で、
「坊よ、これみろよ」
と、僕の前にこわれた卵を差し出した。見ると、殻のなかですっかり雛鳥の姿に
成長したものが、死んでいるではないか。
「じいさん、これ一体どうしたんや」
と、尋ねると、「これを見るべく、十匹はこの通り昨日かえっただが、この三個はな、
親が外からつっつくだが、自分で殻さわる元気なかっただ」
と、説明して呉れた。そして後から、
「ヒナは町っ子のようだで」といって、ハッハッとわらった・・・・・・
 些細なこの事が強くぼくの心をうった。帰宅の途中の汽車でも、あの殻を破れ
なかった雛のことが忘れられなかった。あれから、八ヶ月位なると思うが、
今もまだ忘れていない。
 終戦後、新教育が強調されて、その線にそって六三三制の新制度が布かれ、
生活活動を中心とした学習が重視されるようになった。先生は、なるべく教えることをさけ、
生徒自身に発見させよう、学習させようとして、日夜腐心してこられただろう。
ところが生徒がこの新しい学習法を理解せず、自ら進んで学習して行こうとせず、
単に先生からの教えを受け入れるだけの学習活動しかしていないとすると、
丁度、親鶏が今正に孵化しようとする卵を啄んで、ここだここだと導いているのに、
中でじっとして、一向に反応を示さない雛鶏の姿ではあるまいか。
 外からの親鶏の啄みに応じ、自ら進んで殻を破り、新しい生活に一歩を踏みだす
雛鶏の行動を我らの学習の中にとり入れたいものだ。
 この行動を砕啄同時とでも云うか、先生と生徒両者呼吸を合わせて、
共に親鶏雛鶏の如く新しい境地を開拓し、自ら進んで発見しようとする熱意と努力が、
新しい学問、新しい建築を生み育てゆく要素ではなかろうか。
 建築Σのもとに集まる我ら若人は奮闘しよう。から元気はだめだ。真実の秩序ある
元気さだ。過去を忘れ、将来の東天紅を目指して進もう。進もう。
 あの雛鶏の鳴き声が、ガンバレガンバレと今も尚ぼくの心にひびいている。
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 紫偶会誌5号の記事からページ(16)より
建築生なら 根性をもて 佐々木修一
 寒い寒いと云っていた冬も遠ざかり、早や入学後二回目の春を迎えよう
としている。かえり見ると、入学当時から今日迄、嬉しい事も、楽しい事も、
苦しい事も一通りと云ってもほんのはしっくれを味わってきた。そしてどうにか、
今日までこぎつけたのである。
 青葉、若葉の芽が大きくなるにつれ、私達の心の眼も希望にかがやき、
早や三年と云う学校の最上級生たる年を迎えようとしている。一年の始め
から二年の今日まで苦しい事も多々あった。又悲しい事も味わった。
その出来事に出合った時、私たちは足りない力でありながらも、出す限りの
力を出してきた、がまだ精神的なたんれんがたりないのか、その出来事に
やぶれてきた。
 今考えてみると、情なく思う。なぜならば、物事は必ず成立するのであるから。
その物事を成立させるには、たとえようのない忍耐力が必要である。
又、男としての根性がいる。その忍耐力がすなわち男の根性ではないだろうか。
その忍耐力すなわち根性が、建築科の生徒には必要ではないだろうか?
 人になぐられたら、なぐりかえすような男になりたいと、私は努力しているのである。
その意味において、今の二年生、一年生、又新しく来る一年生が根性のある
人間になってくれるよう希望する。
 浅緑に晴れわたった大空のように希望に溢れ、若葉のように新鮮な感情と
あこがれを抱いて校門をくぐって既に二年の歳月も過ぎ去り、多彩な思い出と
共に若い青春は刻々と過ぎて行く。
 日本も七年間の占領行政を脱して漸く昨年独立国家として一人立ちできるように
なった今日この頃。木々の梢も色づき、野にも山にも一面に美しい花が咲き、
小鳥たちは可愛い口もとを動かして春のよろこびを歌いまくる。人々の心に
一点のかすかな光を投げかける希望の春。思っただけでも胸は一杯になる。
高校生活最後の一年生だ。明るく楽しく生しくこの最後の年を多彩な思い出と
共に高校生活の扉を閉じたいものだ。
 
(この年の前年、昭和27年4月28日(1952年)サンフランシスコ講和条約
が発効され、日本は独立しました。その後、1952年(昭和27年)2月10日
トカラ列島、1953年(昭和28年)12月25日奄美群島が返還される。
1968年(昭和43年)6月26日に小笠原諸島の返還がなされ、
最後に1972年(昭和47年)5月15日沖縄返還(琉球諸島及び大東諸島))
 
今日から第5号を掲載します。
詳細はFBシグマ会を御覧下さい。

1953年 昭和28年発行の会誌5号の巻頭言より-抜粋
 
 卒業生及び在校生のΣ諸君よ!わが建築科が昭和19年に誕生してから
9ヶ年、Σが結成されて5ヶ年、卒業生を世に送ること今年で四回、
昨春建築科の実習室が木造ながら校長先生の御努力と市当局の配慮
によって建てられ、今明年中には鉄筋コンクリート造の建築科教室が増築
されようとしている。
 「自由奔放のデザインの工芸」「図面は工芸」「工芸のA君のような馬力
と熱のある人物は最近の採用試験者中にはいない」・・・といった学界業界
の声を、僅に併設されて十年足らずのわがΣへの世評を聞く昨今となった。
無名戦士戦没者合葬墓の設計図案懸賞競技に於てわがΣの佐江木先生と
二年の戸田君合作による応募案が二等一席に入選し、東京建築学界に於て
表彰される栄誉を荷い、又、B君の図面が東京一流のM事務所で認められる
機会を得るなど中央に工芸建築科が進出しつつある現状を思うとき、
これまたΣは春光麗らかである。
 
 だがΣの諸君、思へ!開花麗光の先に凛風霜雪の隠忍の冬があったことを、
それをΣの先輩が耐え踏み越えて来たからこそ今日があったのだ。
諸君の先輩が自分の実習室一つなく製図板一枚なく借り物で間に合わし
参考書一冊なく世は科の存在さえしらないといった学窓生活に耐えてきた。
世に出ては現場で素手で凍った溜水を汲み出すということやこれに類する
試練を乗り越えた地と涙の短いながら「生命をかけて築いた歴史」であった。
これがΣ魂なのだ!古いかも知らぬ、馬鹿げているかも知らぬ。
これに耐え築かなければ存立出来なかったΣであり創設時代だった。


シグマ5号の表紙

00.jpg
 
 
紫偶会誌4号の記事からページ (38)
文化祭について  二年 小田 崇
 本校では毎年一回恒例の文化祭が行われるが我が建築科では毎年
この文化祭に参加して文化祭の行事をにぎわしている。そこで今年は
二月の十七日に文化会館で開催されたが、僕ら建築科の生徒は文化祭
に「どん底」という劇を出し二月十七日開催される日迄一生懸命「どん底」
の舞台を背景をこしらへた。この舞台の背景をこしらへるのに建築科二年
のものは全員協力して十日程前から授業を一部をさいて又毎日おそく迄
苦心してこしらへた時は全て心の中はうれし泣きであった。
 今年からはコンクール制が廃止され、参加した劇やその他のものにも
皆平等として参加賞が与えられる事になった。文化祭は毎年充実したものが
出される様に鳴ったし去年の建築から「俊寛」が出され好評を博し、
第一位を獲得したのはみな承知の事だと思う。そして建築科は先輩の人達も
在学中はやはり文化祭に参加してよい成績をあげた事を聞いて知っているが、
後輩の我々には非常に刺激されて、建築の伝統の中にこの文化祭を含み
いれて行く様にしたいと思っている。又何年も続けてほしいと僕は望む。
 今年の第五回文化祭は定時制課程の諸君たちもこの文化祭に加わって
よい演劇を示してくれたと思っている。そしてこれらの文化祭は先生方の
手一つもかりづに生徒会の手で文化祭を進めたのでよいりつぱな文化祭
をくりひろげる事は僕としても非常にうれしいし参加したのも心ではうれしい事
に違いないと思った。
 今年の文化祭の内容として非常に充実もあれば少々ザツなものもあったが
全体を通じて建築の「どん底」は建築生全員一致協力しただけあってよい劇が
出来て、中でも一番光っていたと思っておる。
 今年の各科を通じて参加した劇は、三っであつて、みな未熟ながら一生懸命
やっておつた。
 狂言などもあったが、その他のものも、皆一生懸命やったので終日迄立派な
文化祭も出来た。
 今年も文化祭が発展して立派な文化祭としての充実したものがうまれる様
せつに希望する。
(講堂使用不能な為、大阪市文化会館で文化祭は行われた。この時講堂は
建築科の実習室になっていたからで、この後、建築の教室が出来る。
 しかし、この頃の劇てなぜかロシア文学が多くないかい、戦後てことが影響してる?)
 
 
本日は工芸の体育祭
天気快晴なれど、気温が高くなりそうです。
そんな体育祭にまつわる記事を紫偶会誌4号の記事からページ(27)
1951年頃の話し
体育祭について 建二 田中 進
 今年も建築科が優勝したが、優勝したのは応援であって運動競技に
優勝したのではないのである。もともと体育祭と云えば、運動競技が
第一の目的なのであって応援は二の次であります。幸い建築家一同の
一致団結によって応援には優勝したが、優勝する位応援が立派に
出来たのだから運動競技の方ももっといい成績があがる筈であります。
運動をやるにも団結力が必要です。だからこの建築家の偉大な団結力
を利用して今年の体育祭を目指して練習すれば、必ずいい成績があがる
だろうと確信しています。建築家は特に身体が大切なのだから平常の
運動を怠ってはなりません。応援の方は三年生諸君のよき指導と下級生
一同のよき協力にらって、あれ程はりきっていた金属工芸科を破って優勝
したのは何と云っても愉快であります。今年は金属工芸科も非常に
張り切っているから、油断は禁物であります。僕たち二年生は、先輩に
負けないだけ努力して下級生達のよき指導者となって今年の体育祭を
かざろうと思っています。
 
(この時点で連続3回優勝しており、この記録は連続6回優勝までつづいたようです。)
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