忍者ブログ
  



[ 1 ]  [ 2 ]  [ 3 ]  [ 4 ]  [ 5 ]  [ 6 ]  [ 7 ]  [ 8 ]  [ 9 ]  [ 10
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

シグマ会 会誌8号の記事からページ(35)-(40)
1955年度の歩み 報告と感謝
 昨秋(1954年)永年の校長先生始め諸先生の苦節なり鉄筋コンクリートの新校舎が竣工して、一階に実験室、暗室、教官室、第二階に三年生の製図室と一年生のホームルーム、第三階に一年、二年生の製図室を建築の本拠として定められ。わが建築科も新しい学習の場を有ち出発した。1955の陽春、新学期より実験器機、施工器機、標本等の設備も新しい容にふさわしく夫夫完備して再出発した。
 いよいよ、わが科の新しい途が永遠に開けた。教官の構成も数年前に比して充実された。教論4名。従来通り建築教育界の大先達渋谷五郎先生。今年よりデッサン教授のため一水会の松田忠一先生の両講師。実習教官として2名、計8名の人容に夫々専門を担当して頂くこととなり、立派な構成で発足した。
 生徒諸君も新しい器で、新しく知的な建築の途を前進した。
(渋谷 五郎(シブヤ ゴロウ) 1919年東京工業高等学校卒業。大阪市立都島工業高校教諭を経て、元大阪工業大学講師。芝川ビルディング(1930年、大阪市中央区、基本設計・構造設計を担当登録有形文化財)
 松田 忠一 (まつだ ちゅういち)明治27年~昭和58年 享年90才  出雲市出身
大正7年、東京美術学校を卒業、木村武山、平田松堂について日本画を学び仏画や宗教画に早くから手腕を発揮する。大正14年に渡欧し2年間油彩を研究し帰国。昭和7年再度渡欧、翌年帰国。以来洋画の基礎にたって日本画の美点を取り入れた独自な道を開拓する。
この頃、高津中学、天王寺師範等で教職についている。)
  昔は、渋谷先生や松田先生以外にも、武蔵野工業大の蔵田 周忠先生等、教育界の大先達な方々の教えを直に受けていたようです。
PR
シグマ会 会誌8号の記事からページ(24)-(25)
 建築に対する所感  一年 大木 功
 僕は建築を学びたい一心から、一時間も汽車にゆられてこの工芸の建築科に通学している。
 僕達は入学早々鉄筋コンクリートの校舎に入った。そこで僕の理想とした建築の勉強が始まり、早や十ヶ月になろうとしている。現在では僕がこの工芸の建築科に入る前に考えていた建築というものを、まったくくつがえしてしまった。以前は建築を非常に軽視していた。ところが建築というものがそのようなものではなく非常に複雑なものであることが分かった。建築を学ぶに際し、不必要な学科というものがほとんど無いことである。建築を「木」にたとえるなら、我々は葉か花びらのようなものである。これで三年間に建築に関する知識をとれだけ習得する事が出来るだろうか? せめて学校で習う事だけでもと思っても、なかなか習得することが出来ない。それだけ建築というものはむつかしいのである。僕達は上級生の方から「団結せよ」とか「奴根性を持て」という事をよく聞かされた。初めはその意味がよくわからなかったが今ではその意味がすこしわかってきた様な気がする。建築家にとって「団結」という事が大変重要な事だと思う。どんな小さな家であっても、一人ではとうてい造り得ないだろうと思う。しかし、皆が一致協力すれば、たやすく造り得るだろう。この事は何事にも通ずる事と思う。
 今日では建築物をよく観察する様になった。これも建築を学ぼうとする意志があるからである。今後建築物はいろいろと改良され、それに関する知識も一段と増す事と考えられる。そのような事を考えると我々の前途は無限に展がる。しかし、その中にも光を求めてどんな事にも負けず。打ち進んで行く事により建築の道が開けるのではないだろうか!!
(ここで「団結」、「根性」が出てきますが、他でもやたらと出てくる。昔から言い続けてきたんですね。)
シグマ第8号1956年(昭和31年)発行
巻頭のことば 若人よ聡明なれ 会長 山本利雄
 わが建築科はここに第七回目の卒業生34名を世に送る。新卒業生諸君お目出度う。在校生一同心からお祝い申し上げる。
 世に建築不況の声をきく。実際、就職についてはお互いに教官生徒諸君と共に、今年ほど苦しんだことはなかった。この面からだけ見る時我々は暗い幻影におそはれた。だが、それは建築業界が不振であったからで、私の見るところ、「建築」は「建築界」は近年にない新々発展の様相を示し。一般の建築への関心と支持は生々向上している。
 ここに於いて、諸君、新卒業生、在校生に心から卒業を祝い、建築を学ぶことを喜ぶ。他の分野と同じく科学分野、芸術分野の技術としての「建築」が今日程、青春時代を築いていることはあるまい。諸君は希望をもてる。未来を信ずることが出来ると私は諸君に期待し喜びを捧げる。少なくとも工芸建築科の卒業生、在校生はこの大きな視野に立って前進されたい。
 ・・・・中略・・・・
 アジア、インド諸民族の覚醒と植民地的存在からの脱皮、中国の新しい変革、科学技術の平和への原子力の解放、世界青年が情熱をもつて献身して勝ち得た古い価値体系の世界から転換させた-この新しい時代は「若き思想」「青年の知恵」が築いたのだ。建築技術-聡明な「青年」建築家の作品で日本の国土が改まりつつある姿を諸君は見ている。技術革命が街を改造しつつある。科学され、考えられ、大きな視野のもとで生み出された「建築」を諸君は本気で見、目で捉えている筈だ。形式に拘泥し、権威と考えていた古い価値体系が、若い新しい自由なそして大きな世界観に立った価値体系にとつて代わった。
 建築は社会の鏡という正に若人の築いた世界が諸君の学びつつある世界の上にも表れ、それを諸君が感得されつつあるであろう。一時の暗々幻想をこの清新の若さで克復し、新しい変化する状件に対応するだけの知恵を養い勉強し、「聡明」所謂「青年の聡明」さを以てこの時代の全体的な展望をし、その意義を正しく捉え、自己を育てよ。青年よ聡明なれ。若人よ見識を持て。
 工芸建築科に育まれた諸君よ。聡明さを磨くことにつとめよ。太陽は彼方に輝いている。
 シグマ会 会誌7号の記事からページ(30)-(32)
黒岩明男君の死     山本利雄
 春の野に萌え出ずる若芽を心なき人によって踏みにじられ、
生命を枯らすことでさへ心痛むものである。
 若し人生の終野に光明と希望を持って飛び立つた若々しい牡鹿を
戯れに射た弾で葬られたとしたら、これほど無情、無惨なことはあるまい。
 黒岩明男君の死は正にそれである。いやそれよりも酷であり、
激しい怒りさえ覚える。
 幾星霜、両親の慈愛は卒業する日を待たれたことであろう。
師は幾度か慈悲の鞭を打って鍛へた大成を念願したことであろう。
 Σの友達、第5期生黒岩君は蛍雪になり、今29年3月わが建築科を
終わられ、本人はもとより御両親の喜びのうちに田中建設株式会社へ就職。
然も母校建築科の新校舎の仕事に従事すると云った幸せに巡り合った。
5月の堀り方の工程頃から、自ら育ち遊んだ校庭に日夜姿を現し、
この仕事に生命を打ち込まれたのであった。
 ・・・・中略・・・・
 あヽ!今は無し、明男君!Σの友達の初めての死、然もこの3月
巣立ったばかり、前途洋々の若芽、青春の牡鹿が残酷にも、
あの建築科教室のすぐそばに建った現場小屋の2階で9月24日の未明、
強盗の一撃によって、就寝中にたおされたのであった。
 それから三昼夜病床にあって、意識戻らず、遂に一言も語らずして
9月27日午前3時36分永眠されたのであった。
 あヽ!なんと云う悲しき事であろう。何という不運なことであろう。
ただ不慮の災難というほかない。心から冥福を祈る。・・・以後省略

 (シグマ8号によると、翌年黒岩家では一周忌の法会が行われた。
その際記念として学校へ大時計を寄贈された。篠原校長もこれを受領、
学校会議室の壁に掲示永久に同君を偲ぶようにしたと書かれていましたが、
現在この大時計が何処にあるのか?)
 
明日よりFBにて、シグマ第7号1955年(昭和30年)発行を掲載いたします。
その中の一部抜粋にて掲載

 
文化人になってほしい 武蔵工大教授 蔵田 周忠 ページ5
 今この机の上に「工芸新聞」の第33号の第1頁が開いてある。
「建築、美術両科の夢ここに実現」と大きく見出しが見える。「新校舎
落成式盛大に挙行」された時の喜しい記念の諸君の母校の新聞である。
 「白聖の殿堂から人材出でよ」と書かれた篠原校長の言葉は諸君よく
読み返されたことと思う。ほんとにこの喜しい今日を実現させるための
御苦労の並々ならぬものであったのをお察しして、その切々のお言葉に
私も同感するのである。山本先生も全く喜びに満ちて
しかも「待望のわが家」の将来に望みをかけておられる。皆さんは苦労
されたことをお察ししてその喜びに心からの同感を送る、と同時に、
やはりわれわれの先輩となると何か一言Σの諸君にも言うようになるのは
年の順として許して下さい。同じ『工芸新聞』のその第1面に「新校舎は
ゴム靴使用」とある。私も同感。
 清潔なゴム靴をはいて、諸君勉強に励んで下さい。特に制図(従来の
製ではなく今後は京大の元良勲先生の提唱通り制にしてゆきたい)これは
特にほこりっぽい室での作業であってはならない、廊下も教室も制図室も
実験室も、すべて清潔で整頓された室であるのが本来なのである。
 とかくバラックに長年住ついていたり、文化度の低い人達は、自分の
生活環境の不整頓や混雑にまひしているか、或いは全然無頓着に過ごして
いることが多い。経済的な事情などでどうにもやむを得ない場合もあるが、
諸君の母校の新館をちょっと見せてもらった感じから言うと、ほんとうに
皆ゴム靴を新調して、校舎全体の清潔と整頓を保つことに心をつけて
いただくのは当然だと思われる。
 各人の身なりと同じで、ぜいたくな必要は更にないが、清潔と整頓による
身だしなみは、生活環境の清潔整頓と相通じた文化人のセンスの表れである。
このセンスこそ貴い。このセンスの行きわたる所に、知識の整然たる摂取があり。
透徹した設計、制図も創作される。更に立派な住宅もビルディングも建設され、
秩序ある都市も、そして国家も出来上がるのである。新校舎でゴム靴を
はく心をよくよく味わい、その効果を考えつつ、皆立派な文化人になって
ほしいものである。(1954.11)
 
(蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 1966年3月7日)は
日本の建築家。分離派建築会に参加し、建築史関係の著作が多い。
また、東京高等工芸学校、武蔵工業大学で後進を指導した。
新校舎とは、前年に3号館南側が竣工した。)
 
忍者ブログ   [PR]