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紫偶会誌6号の記事からページ(42)
1953年度の記録 報告と感謝より抜粋
創立30周年事業
 初夏よりこの準備を進め、講堂に於ける各科綜合展を「現代のフォルム」
と主題し、新しい構想のもとに各科長の意見をまとめ山本これに当たった。
中央に片山鉄工所の格別配慮出品寄贈によるガラスルームを建設、
各種資材出品は別記の各社の御提供をかさねて堂々とした一つの
現代フォルムの表微を示した。これには斉藤先生数日に及ぶ夜を徹しての
努力、生徒諸君の黙々の協働によってなされた。又、荒川先生による新しい
試みによる茶室が生徒の協力によって会場を飾った。すべて生徒教官の
「意志」的なものの具現であり表徴を示した展覧会であった。
Σの友達、3年樋口君、森本君、山口君の父上のご協力は実にありがたく、
植樹配石に、数千枚の煉瓦及び砂利、砂其他の提供、陳列障子の製作
にと-感激そのものであり、感謝を表したい。
 (この頃は多くの会社の寄付や寄贈があったようですね。
ガラスルームや茶室の写真があれば掲載したいです。)
 
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紫偶会誌6号の記事からページ(22)
日本にも高層建物は立つ  建三 服部 章
 橋本君と私の卒業設計はホテルをやった。それの階数が30階近かった。
 先生にみてもらうと「これは法規にひっかかるからかんばしくない」と
云われた。私はこの法規がどんなこんきょから生まれたかしらないが、
多分地震的応力、地質的応力等の見地から出てきたのであろう。
であれば、これをマンゾクするように建築構造を特殊化して考えたら
どうであろう。これは夢かも知れない。しかし私はこれを夢とは考えない。
日本にも必ず何十何階という建築物は立つ。例えば地上30階にすれば、
地下7階~10階ぐらいにし、地上3階ごろから地下の3階ごろまで、
又地下全部を建物周囲を厚さ1Mぐらいの壁をつけると、
地震による応力は耐えるだろう。地震がくれば土地が動くように建物も動く。
 
(日本最初の超高層ビルと言えば、霞ヶ関ビルディングです。
地上36階、地下3階、地上147mで、1965年(昭和40年)に起工、
1968年(昭和43年)にオープンする。この頃の建築基準法により、
31mという高さ制限(いわゆる百尺規制)があったが、1962年
(昭和37年)に建築基準法が改定されたのをきっかけに、
霞ヶ関のプロジェクトが始まった。この31mというのは元々は
英国法の100フィートという制限からきたらしい。ただし、実際は
建築基準法の特例により31mを超える高さの建築も可能であったため、
1953年(昭和28年)には高さ41.23m、12階建ての大阪第一生命
ビルが竣工し、1954年(昭和29年)には高さ43m、11階建ての
東急会館(現・東急百貨店東横店西館)が増築により完成している。
なお、この当時に日本で最も高い建物は国会議事堂の中央塔 (65m) です。)
 
シグマ第6号1954年発行
巻頭のことば 会長 山本利雄 抜粋 ページ5~6
 
 今日のしぐまの諸君は幸福である。「愛」に近い設備とわづか1,2名
の教官とで寒い製図室で師弟お互いの愛情だけをたよりに寄りそい、
助け合って歯をくいしばって育てて来たわが建築科、わがしぐま
であったのだ。そこに自然に生まれたのがしぐま精神であり根性なのだ。
苦しさの連続の中で未来の歓喜のために泣き泣き烏口を握ったのだ。
深夜の火の気のない教室で鉛筆を走らせたのだ。終電車に雪道を
ふんで急ぎ帰り行く素朴な第一期、第二期生の姿が瞼にうかぶ。
これだから13号台風中にコンクリートタワーの頂上で作業を捨てない
男も生まれた。現場がすんでから大学でなく夜間の高校建築科に再び
お習いにかけつける人も出た。毎日富士山の雄姿を仰ぎこれを目ざし
てその山麓の現場で掃除と風呂焚ばかりの一年間身を挺した人も出た。
一流事務所で、しぐま出の若僧の図面が最高成績であり、卒業一年
以内にも不拘四階建コンクリートの構造計算をまかされ一人でやり
おうせた人間も現れた・・・・「感謝する」ことを知り。「つくす」ことを
やり通し、そして「歓喜」を味わいつつある人達だ。これらは今日では
やや創設時の異能的所産であろう。
 しかし、この根性この真実は不変であると信ずる。すべて単にパンや
目先の利益にのみ仕事をする精神でなく「自己の歓喜」のために仕事を
した人達である。「彼方の」或は「大きな」「歓喜」を味到せんとした先輩
である。
 こうした人達の築いた今日の「工芸パラダイス」なのだ。この築かれた
幸福の上で今日諸君は甘い夢や小さな又はけちな満足に酔っては
全くもってもったいない。
 諸君つくせ!更に大きな幸福、高いパラダイスを築こう。
700f641c.jpeg
 
明日からシグマ6号を掲載致しますが、この1954年(昭和29年)に3号館南側が竣工いたしました

そして、北側は1957年(昭和32年)に竣工です。

写真をみると左右で色合いがちがいますが、右側は1954年竣工で、左側が1957年竣工です。

シグマ会誌にもそんな校舎の話しが出てきます。


1954_1957_3.jpg

紫偶会誌5号の記事からページ(37)-(41)
昭和27年度の報告と感謝を抜粋する。
わが家初めて建つ
 昭和19年併設以来、わが建築科が転々として、他科に同居させてもらっていたり、
講堂に仮住まいをしていたが、校長先生の御骨折りで、昭和27年3月遂に木造平屋
70坪の建築科実習室を校庭東側に建てて頂いた。たとえ仮建築とはいえ、
待望のわが家が8年振りで出来、新年度四月からΣ全員歓びと感激をもって新居で
授業を開始できたことは有難く、うれしいことであつた。同時に中版製図板の45枚と
T定規入れ3ヶなど新調されて、充実した新教室で清新な気分に一同浸つた。
 
渋谷先生来講
 今学期より元都島工高建築科長、伏見高校長であり、建築教育界の大先輩
渋谷五郎先生を講師として迎え、一年の木構造、三年の施工を教えて頂くことになった。
校長先生の御関係もあり並に山本の恩師とて御願いして御承認を得たもので、
願ってもなきΣの充実を示した。
 
歓迎会
 4月29日天皇記念日を期し新入生の歓迎とΣの親睦を兼ねて、全員ならへ
遠足会を催した。雨天のための集まりが少し悪かったが、雨中の東大寺博物館
の白鳳天平展など味い深い一日を送った。
 
リチャード・ノイトラ氏     
 5月10日有名な米国の建築家ノイトラ氏の講演会が朝日新聞社にあったので、
Σの有志は多数拝聴に出た。
 
(リチャード・ジョセフ・ノイトラ(Richard Joseph Neutra、1892年4月8日ウィーン
- 1970年4月16日)は20世紀中頃に活躍したオーストリアのユダヤ系ドイツ人の
アメリカの建築家。ドイツ語読みではリヒャルト・ヨーゼフ・ノイトラ。)
 
法隆寺
 5月11日、常に御指導と温かい庇護をΣによせられている蔵田周忠先生が
法隆寺へ来られたのを機会に山本、佐江木両名は卒業Σ会員と共に同寺にて
拝眉、改修新塔をあふぎ、併せて連盟当番校として展らん会の企画について
御教示を得た。
 
(蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 1966年3月7日)は日本の建築家。
分離派建築会に参加し、建築史関係の著作が多い。また、東京高等工芸学校、
武蔵工業大学で後進を指導した。)
 
卒業旅行
 5月31日九州方面へ卒業旅行に三年生25名本日出発。二泊三日の修学旅行
にて斉藤先生引率された。土曜日のこととて、一年二年のΣの友達多数、
大阪駅へ見送りに出た。整然Σの歌を合唱して見送った様子は実にうれしい
口径であった。6月4日、元気でつつがなく帰校した。
 
キャンプ其他
 Σの体力向上とリクレーションのための有志、7月21~22日、近江舞子に
キャンプする。参加一、二、三年十数名愉快な集いであった。山本、島野教官引率、
小豆島キャンプは学校の催しであったが、一年生数名参加、斉藤教官がつきそって
行かれた。山岳部では21日~25日迄、白馬を中心とする日本アルプスに、
三年橋本、槙田君と佐江木教官出かけられた。尚学校催しの富士登山も
26日~28日迄行われ、一年数名参加、佐江木教官同伴さる。
 
現場実習
 例年の如く各方面の御高庇により、2年3年合わせて36名の多数の生徒が
夫々の現場で勉強させて頂いたことは心から有難いことであった。
 このことが、初めての経験ある二年生は全く無中で頑張りつづけた。
また、三年も炎天下ほろりとさせる程の真実味あふれる精進ぶりだったことに
敬意を表し、御厄介になった先と生徒氏名を記し謝意を表する。休中教官交代
で生徒の現場を見に廻り激励した。
 尚、2年3年合わせて20名のものが、市役所建築局の大阪市街地建物調査表
の仕事に休中実習室を市の仮出張所として出勤働きつづけた。市の好意に感謝
すると共に、島野先生が一日も休みなしに休返上して指導に当たられた。
 
体育祭
 10月19日恒例の体育祭が開かれ、四年連続応援団優勝を記録した。
一年は競技で2位を獲得した。二年は仮装(消防出初式)で二位を得た。
団結と協力は全く建築の独特のもので、敬意を表したい。
 
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